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更新日:2010年11月1日

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ヴェルニー、小栗の尽力により横須賀製鉄所建設開始(江戸時代)

横須賀製鉄所の建設

幕末になると、江戸の近海に外国船がしばしば現れるようになり、海を守ることが叫ばれるようになりました。特に嘉永6(1853)年、浦賀沖に米国のペリー艦隊が現れてからは、幕府・諸大名も強力な海軍の必要を感じ、軍艦や船舶の建造や購入に力を入れ、海軍の拡張を図ってきましたが、それに伴い修理や器具製造の必要が生じ、横須賀製鉄所の建設が計画されました。

この製鉄所の建設を進めたのが、幕府の勘定奉行小栗上野介忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ)と目付栗本瀬兵衛(鋤雲)でした。彼らは、フランス公使レオン・ロッシュとともに、幕府の重臣たちを説きふせ、日本の将来のため強い意志のもとにこの事業の実現を図りました。

幕府は元治元(1864)年にこの建設をロッシュに依頼し、ロッシュはヴェルニーを招くことになりました。
同年小栗、栗本、ロッシュたちが横須賀港を見学した結果、湾の形に変化があって要害の地であり、風波の心配もなく湾内も広くて深い、また、景色も優れ、フランスのツーロン港に似ているなどの理由から、横須賀を製鉄所の建設地と確定しました。

製鉄所の敷地は約24万6千平方メートルで、慶応元年9月27日(1865年11月15日)に関係者が出席して鍬入式が行われました。
造成は順調に進み、明治維新によって、製鉄所の一切は明治政府に引き継がれましたが、工事は引き続き進められ、ドックや船台なども次々に完成していきました。

 図:明治初期の横須賀製鉄所(西堀昭氏所蔵)

そして横須賀製鉄所は、横須賀造船所、海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変え発展を続けました。
数々の軍艦を建造した施設と造船技術はとても優秀なものでした。
昭和20(1945)年以降は米海軍の基地となり、今日に至っています。 

小栗上野介忠順(ただまさ)(1827-1868)

小栗上野介忠順(ただまさ)(東善寺所蔵)小栗家は代々徳川家に仕えた旗本で、忠順は小栗家12代目の当主として優れた才能と人格を兼ね備えていました。
安政7(1860)年、日米修好通商条約批准書交換のため幕府が遣米使節団を派遣した際、目付(監察役)として抜てきされ、使節団の一員として渡米しました。
その後も外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行など幕府の要職を歴任し、数々の業績を残してきましたが、新政府軍と最後まで戦うべきと主戦論を強く主張したため、すべての役職を罷免され、領地であった権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町)に隠居しました。
そして慶応4(1868)年、忠順は何の取調べをされることもなく、新政府軍によって権田村の烏川水沼川原で斬首されました。

小栗上野介忠順の墓(群馬県指定文化財)は仮住まいをしていた倉渕村の東善寺にあります。
また、忠順が斬殺された烏川のほとりには「偉人小栗上野介、罪なくして此所に斬らる」と彫った碑がひっそりと建っています。

フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1837-1908)

フランソワ・レオンス・ヴェルニー(伊藤芳樹氏所蔵)ヴェルニーは、1837年12月2日にフランス中央山岳地帯のアルデシュ県オブナで生まれました。
23歳で造船大学を卒業後、海軍造船官として、ブレスト工廠で船舶の修理などを担当しました。
フランスが自国の東洋貿易を守るため、上海(中国)で砲艦を建造することになった時、ヴェルニーは、その責任者に抜てきされ、2年間その任務に就きました。
その後、当時の駐日公使ロッシュから「日本に造船所を建設することになったので、ぜひ」という依頼が届きました。
そこで彼は一時フランスに帰国して、資材や作業に従事する人たちの準備を整え、慶応2(1866)年6月に来日、横須賀に着任しました。
以来、帰国するまでの10年半、激動の日本にあって造船業に励みました。

彼は造船業のほかに観音崎、城ケ島、野島崎、品川の各灯台や走水の水道などの建設にも尽くしました。
明治9年(1876)ようやく日本人の手で造船事業ができるようになった時、彼は帰国しました。

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