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更新日:2018年1月15日

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日本を開国へと導いた立役者!「浦賀奉行所」

2020年に「浦賀奉行所」は開設300周年を迎えます

浦賀奉行所は享保5年(1720年)12月(旧暦)に設置され、船改めをはじめとして、海難救助や地方役所としての仕事などを担うとともに、異国船から江戸を防備するための海防の最前線として、重要な役割を果たすようになりました。
また、浦賀はペリー来航による開国の地であるとともに、江戸から近代にかけて造船で栄えたまちでもあります。
このような奉行所を中心とした浦賀の歴史は、本市の重要な歴史遺産であると考えます。
2020年に浦賀奉行所は開設300周年の歴史的な節目を迎えます。

浦賀奉行所の模型

浦賀奉行所の模型(浦賀コミュニティセンター分館にて展示中)

浦賀奉行所開設300周年に向けた取り組み(イベントなど)

第24回中島三郎助まつり
~浦賀奉行所与力・中島三郎助を顕彰する催しです~

中島三郎助は、幕末のはじまり「ペリーの来航」と幕末の終わり「箱館戦争」の当時者として、最前線で立ち会った人物です。
2020年に浦賀奉行所が開設300周年を迎える歴史的な節目を前にして、浦賀コミュニティセンターにおいて第24回目となる「中島三郎助まつり」を開催します。
日本舞踊、吹奏楽などのステージアトラクションをはじめ、浦賀奉行所、中島三郎助に関するパネル展示を行い、黒船シチュー、地元生わかめなどの飲食・物販コーナーなど賑やかに盛り上げます。皆様のご来場をお待ちしております。

  • 日時:平成30年1月20日(土曜日)・21日(日曜日)
  • 会場:浦賀コミュニティセンター(浦賀行政センター2階・3階)
  • 主催:中島三郎助と遊ぶ会(共催:横須賀市、浦賀・鴨居地域運営協議会)
  • 主な実施内容
    ○前夜祭イベント(講演会)
    日時:1月20日(土曜日)18時~19時30分(入場無料)
    会場:浦賀コミュニティセンター集会室(浦賀行政センター3階)
    講師:山本詔一氏(横須賀開国史研究会会長)
    テーマ:浦賀奉行所復元に向けて
    定員:当日先着150人
    ○メインイベント
    日時:1月21日(日曜日)10時~16時(入場無料)
    会場:浦賀コミュニティセンター(浦賀行政センター2階・3階)
    内容:ステージアトラクション(日本舞踊、吹奏楽、ダンスほか)、展示コーナー(浦賀奉行所、中島三郎助に関するパネル展示)、飲食・物販コーナー(黒船シチュー、コーヒー喫茶、地元生わかめ)

 

浦賀奉行所が歩んだ歴史

1.浦賀奉行所の設置と主な役割

浦賀奉行所は、江戸幕府の直轄地の要地に置かれた遠国奉行の一つとして、1720年(享保5)12月に、下田から機能を移転して新設されました。移転当初の主な役割は以下の3点です。
1.江戸に出入りする船舶等の検査監督
2.付近の幕府領地の民政一般の実施
3.付近の幕府領地の刑罰や裁判の実施
特に1.は、江戸時代に入ってから海運が発達して、全国各地から江戸に出入りする船舶が増えたことにより、その取り締まりを行う「海の関所」としての役割を担っており、浦賀奉行所の設置から廃止まで機能し続けていました。上記に加え、1818年(文政元)の英商船ブラザーズ号の来航や、2年後の1820年(文政3)会津藩が相模国の警護を免除されたことなどにより、浦賀奉行所の役割に以下の2点が加わりました。
4.外国船に対する海防やそれに伴う関係諸藩の指揮
5.幕府の指揮による外国船の応接
これらの役割は、江戸近海に来航していた外国船に対する防衛や交渉を行うという大きな任務でした。ペリー来航以前に江戸近海に来航した外国船はいくつかありますが、それに対する浦賀奉行所による対応は、その時点の幕府の方針により異なっていました。
1837年(天保8)に日本人漂流民を乗せ来航した米商船のモリソン号に対しては、当時の異国船打ち払い令の方針に従い、浦賀奉行所は砲撃を行い、その結果モリソン号は退去しました。
しかし、1839年に中国で起きたアヘン戦争により、1842年(天保13)、幕府は異国船打ち払い令を止め薪水給与令を出しました。その後、浦賀に来航した米捕鯨船のマンハタン号に対しては、浦賀奉行所は砲撃を行わず、漂流民の受け入れを行っています。
※参考文献…『浦賀奉行所』(西川武臣著)、『新横須賀市史』(通史編近世、年表)

広重画山海見立相撲相模浦賀

広重画 山海見立相撲 相模浦賀
〈横須賀市自然・人文博物館所蔵〉
浦賀を描いた浮世絵。絵の中央に燈明堂が見える。

2.ペリー来航と浦賀奉行所

1853年(嘉永6)6月3日、ペリー提督が率いるアメリカの軍艦4隻が浦賀沖に来航しました。この時、ペリー艦隊と最初に話しあった日本側の主役が、浦賀奉行所の役人たちでした。彼らは、これまでの外国船とのやり取りで交渉には慣れていたため、すぐに軍艦に乗ろうとしましたが、ペリー艦隊はそれを拒絶しました。ペリーは、当初から奉行所の中でも身分の高い人物しか交渉しないことにしていたのでした。
そのような中で、最初にペリー艦隊と交渉をしたのは、浦賀奉行所の与力中島三郎助と通訳の堀達之助でした。堀は「私はオランダ語を話すことができる」と英語で言い、隣にいた中島を「彼は浦賀の副奉行である」と言いました。当時の浦賀奉行所に「副奉行」という役職は無いのですが、堀が交渉を進めるため、とっさの判断で「副奉行」の役職を言ったといわれています。これに対してペリーは2人を軍艦に乗せ、これをきっかけに交渉が始まりました。
翌4日には、与力である香山栄左衛門が「浦賀奉行」の役職を詐称して軍艦に乗船して交渉に当たっています。この後、ペリーの久里浜上陸までの交渉は、香山を中心にして行われました。香山ら浦賀奉行所の役人による交渉の結果、ペリーは6月9日に久里浜に上陸し、アメリカ大統領の国書を本当の浦賀奉行である戸田氏栄と井戸弘道に渡しました。与力の香山が「浦賀奉行」と詐称していたため、ペリーは浦賀奉行の戸田・井戸の2名を、それより高い地位の人物と信じていたようです。
※参考文献…『浦賀奉行所』(西川武臣著)、『新横須賀市史』(通史編近世、年表)

米国国書受領之図

米国国書受領之図
〈横須賀市自然・人文博物館所蔵〉
ペリーの久里浜上陸を南側から描いた絵図。
絵図の上側には浦賀も描かれている。


3.鳳凰丸建造と浦賀奉行所

ペリー来航直後の1853年(嘉永6)8月、浦賀奉行2名は幕府の老中に対して軍艦の建造を願い出ました。これを受けた幕府は浦賀での軍艦建造を命じ、現在の浦賀ドック付近で初の国産洋式軍艦「鳳凰丸」が浦賀奉行所の役人により建造されて、翌年に完成しました。
1855年(安政2)には、与力の中島三郎助などの役人たちが鳳凰丸の乗組員となり、幕府の老中へお披露目をするため浦賀を出発し品川沖まで航行しました。鳳凰丸を実際に見た幕府の老中たちは、鳳凰丸は遠洋航海には不適当であるが、江戸内湾の警護のためには役立つという評価をしました。また、浦賀奉行の与力、同心の操縦の腕前については好意的な評価でした。
そのため、幕府はオランダから蒸気軍艦を輸入し、オランダ人教官による海軍伝習について計画しました。鳳凰丸の建造や砲術などの経験を買われた中島をはじめとした浦賀奉行所の役人たちは、幕府の命により長崎の海軍伝習所へ行き、訓練を受けることになりました。
※参考文献…『浦賀奉行所』(西川武臣著)、『新横須賀市史』(通史編近世、年表)

鳳凰丸の模型

鳳凰丸の模型〈浦賀コミュニティセンター分館に展示〉


4.横浜開港から浦賀奉行所の廃止まで

1858年(安政5)に日米修好通商条約が締結され、その後横浜が開港すると、外国船の応接は新設された神奈川奉行が引き継ぎ、浦賀奉行所の外国船応接を行う役目は終わりました。しかし、「海の関所」としての浦賀奉行所の役割は、幕末の政局の混乱がある中でも引き続き行われています。また、鳳凰丸が建造された現在の浦賀ドック付近には軍艦の修復場もあり、幕府が所有している軍艦の修復も行われていました。
1860年(万延元)、日米修好通商条約批准のため遣米使節が派遣され、浦賀奉行所の与力や同心も咸臨丸に乗船していました。なお、同じ遣米使節の船であるポーハタン号には、横須賀製鉄所(造船所)建設の立役者である小栗上野介忠順が乗船していました。この遣米使節が日本へ帰国したのち、小栗上野介は造船所の建設を計画し、フランスのサポートを受けて1865年(慶応元)、横須賀に製鉄所(造船所)の建設を開始しました。
そして、明治新政府が江戸城に入り、幕府軍の敗戦が決定的になると、江戸幕府の支配拠点の一つであった浦賀奉行所も1868年(明治元)閏4月に新政府に接収され、その役割を終えることになりました。
※参考文献…『浦賀奉行所』(西川武臣著)、『新横須賀市史』(通史編近世、年表)、『続横須賀人物往来』

 

 

 

コラム「16世紀後半から17世紀前半の浦賀とスペイン貿易」

浦賀は、中世から良港として知られており、戦国時代には北条氏の大きな水軍基地があったといわれています。1590年(天正18)北条氏が豊臣秀吉によって制圧され、その領地を徳川家康に与えたことにより、浦賀も家康の領地となりました。
16世紀後半から17世紀初頭にかけての国際貿易港としては長崎や平戸などが有名ですが、この当時家康はスペイン船を浦賀に誘致しており、江戸時代の鎖国が始まる直前の一時期、浦賀はスペインとの貿易港となっていたのです。
当時のスペインは、現在のメキシコやフィリピンなどを植民地としていた大国で、フィリピンのマニラからメキシコのアカプルコへの間の貿易の中継基地を日本に求めていました。その状況に家康は着目して、スペインのフィリピン総督とも交渉を行い、その結果、1604年(慶長9)以降スペイン船が浦賀に入港するようになりました。この経緯には1600年(慶長5)に現在の大分県臼杵に着岸し、家康の外交顧問として活躍したウィリアム・アダムス(三浦按針)も大きく関わっています。
こうして、スペイン船の来航により国際貿易港となっていた当時の浦賀には、対スペイン外交を携わっていた三浦按針の屋敷や、スペインが布教を進めていたフランシスコ修道院も設けられていたと伝えられています。家康がスペインとの貿易を推進した理由として、スペインからの鉱山技術や造船技術を得たいという目的もあったのですが、一方のスペイン側は、それらを日本に伝えようとはしませんでした。
そして、1612年(慶長17)に関東の幕領に対してキリスト教禁止の通達が出され、1616年(元和2)には家康が没し、同年に将軍徳川秀忠が中国以外の外国船を平戸、長崎に限定するなど、時代の流れが鎖国へと向かう中で、浦賀の貿易港としての役割は終わりを告げました。その後、江戸幕府は1624年(寛永元)にスペインとの通商を断絶しています。
近年、スペイン、フィリピン、メキシコなどが共同で、17世紀前後のフィリピンのマニラからメキシコのアカプルコまでの太平洋横断、マニラガレオン船(帆船)航路をユネスコの世界文化遺産にノミネートしようという動きがあるようです。この航路の中継点としての浦賀の重要性が、世界に認知され始めているのかもしれません。

※参考文献…『徳川家康のスペイン外交』(鈴木かほる著)、『新横須賀市史』(通史編近世、年表)

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