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更新日:2017年8月9日

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総説

 横須賀の歴史

(1)原始

美しい緑の丘、碧い静かな海にかこまれた三浦半島に、ヒトが生活した痕跡は、約2万8000年前まで確認することができます。
この先土器時代といわれる遺跡は、長井や佐島の台地及び平作川上流周辺の丘陵などから発見されています。次いで縄文時代の痕は、東西の海に面した複雑な入江や内湾に沿って分布し、日本最古の貝塚といわれた夏島貝塚を始め、平坂貝塚、茅山貝塚、吉井貝塚など多くの貝塚、遺跡が存在します。やがて弥生時代も中期となると市域でも水稲耕作が始められ、後期になると農耕の定着がみられ、遺跡が急増します。
主に古久里浜湾沿岸(平作川流域)、小田和湾沿岸、鴨居湾周辺、北下浦沿岸に分布し、海岸部に海洞穴を利用した遺跡も存在します。

(2)古代

古墳時代の遺跡は既に4世紀とみられる神明町・神明谷戸遺跡が存在します。高塚墳は5世紀ころから7世紀にかけて古久里浜湾周辺を中心に築造されました。三浦半島最大の前方後円墳を含む池田町・大塚古墳群や神明町・蓼原古墳など数カ所が発掘され、鉄・金銅製の武具類や装身具、埴輪などが出土しています。さらに末期の7世紀ころには、山崖を掘り墳墓とした横穴群が現れ、奈良時代末までに市内各所に造成されました。
このころ、既に三浦半島に幹線道路が通っていたことは、『日本書紀』、『古事記』の景行天皇40年7月条のヤマトタケル東征伝承からもうかがうことができます。この古東海道といわれる交通路は、市域中央部を横断して久里浜・走水辺から房総へと渡海したもので、久里浜周辺が古墳の存在とも併せて、水上交通上の重要な位置を占めていたことがわかります。持統天皇6年(692)条に「相模国司献赤烏二隻言獲於御浦郡」とあり、御浦郡の初見です。さらに天平7年(735)の『相模国封戸租交易帳』によれば、御浦郡走水郷及び氷蛭郷は、それぞれ山形女王、檜前女王の食封であったことがわかります。この時期、三浦半島にも仏教が伝播し、古東海道沿いである公郷の地に宗元寺が建立されました。その創建は白鳳時代とされ、本格的寺院として発展するのは奈良時代後期からです。このころの古瓦は、小規模ながら市域の数カ所から出土しています。
平安時代となり律令制度が弛緩してくると、貴族・社寺の荘園が全国に拡大します。三浦半島でも後期には南部に三崎荘、北部に三浦荘の存在が知られ、現市域はほぼ三浦荘に重なります。この三浦荘の荘司は豪族三浦氏でした。三浦氏は関東平氏の流れをくみ、始祖村岡為通は康平6年(1063)相模国三浦郡を領して衣笠城を築き、三浦を姓としたと伝えられています。代々源氏と主従関係を結び、義明のとき三浦大介を名のって国衙の実務を握り、相模中央部から安房にも勢力を進めて、相模国で最も有力な武士団に成長していきました。

(3)中世

治承4年(1180)8月、源頼朝は伊豆で挙兵しました。三浦大介義明は直ちに呼応して、子義澄ら一族郎等を石橋山合戦に馳せ向かわせました。しかし、合戦に間に合わず、平家方の河越・江戸・畠山等の大軍に衣笠城を攻撃されます。「衣笠合戦」といわれる勇壮な戦いが展開されましたが、衣笠城は落城し棟梁義明は討死しました。義澄以下一族は脱出して、久里浜から海路安房へと逃れました。
安房で頼朝と会した三浦一族は、その直属軍として頼朝を援け、東国の諸豪族と共に武蔵を経て鎌倉に入り、頼朝はこの地に幕府を創立します。平家追討、奥州合戦などにも戦功のあった三浦一族は、惣領義澄が三浦介を許されて相模守護となり、幕府の宿老としても処遇され、弟義連も和泉・紀伊守護に、甥和田義盛は侍所別当に任ぜられるなど、それぞれ幕政の重責を担いました。
建保元年(1213)5月、侍所別当和田義盛は、執権北条義時の挑発によって族滅しました。義盛に好意を寄せる将軍実朝は、建保3年(1215)3月、花見のため三浦の横須賀に遊覧したことが『吾妻鏡』に見えます。横須賀の地名の初見です。このとき駄餉を掌った三浦義村は義澄の嫡男でした。義村は鎌倉幕府を揺るがした和田合戦、実朝暗殺事件、承久の乱などでは、その政治的手腕を発揮して三浦氏の地位をより強固なものとし、幕政の中枢に参画して権勢を振いました。しかし、義村の子泰村のとき、北条時頼による執権政治確立のための執拗な策謀・挑発をうけ、宝治元年(1247)6月、幕府創業以来の功臣であった三浦一族は、そのほとんどが滅亡したのです。
この宝治合戦で北条方に与同した庶流の佐原義連の孫盛時は、許されて三浦介の名跡をつぎました。盛時の玄孫時継は中先代の乱で北条時行に属しましたが、子高継は足利尊氏に従って勲功があり、賞として相模大介職以下父の遺領等を与えられました。その後、高通、高連、高明は代々相模守護として威勢を振い、時高、義同に至り三浦新井城(三浦市)を拠点に相模国に覇を唱えました。やがて伊豆に北条早雲が出て小田原に進出、義同の拠る岡崎城(平塚市)、住吉城(逗子市)をも攻め落し、永正13年(1516)7月、遂に新井城も落城して三浦義同父子は討死しました。ここに三浦氏は二度目の滅亡を喫し、平安時代からの長い盛衰の歴史は閉じられました。
三浦氏滅亡後、三浦半島は小田原北条氏の勢力下に入り、以後70余年にわたり、その治政下にありました。この間、三崎・浦賀に城郭を取立て、水軍を配して房総里見氏に備え、また海岸沿いには田戸の永嶋氏、上宮田の松原氏といった土豪を配下に置いて、海岸防備の底辺を固めていました。
天正18年(1590)7月、小田原北条氏は豊臣秀吉の大軍に攻められ滅びました。

(4)近世

小田原落城の後、徳川家康が関東を領することになり、三浦半島は郡代奉行長谷川七左衛門が浦賀に陣屋を置いて、これを治めました。慶長5年(1600)豊後に漂着した英人ウィリアム・アダムズは家康に仕え、外交・通商の顧問として重く用いられました。家康は江戸近郊の浦賀で外国貿易を実現するため、アダムズ(三浦按針)に三浦郡逸見村の地を与えています。このころ、浦賀湊にはたびたびイスパニヤ船が入港し、慶長13年(1608)には町なかに修道院もつくられ、貿易代理店が置かれるなど、貿易港としてにぎわっていました。しかし、元和2年(1616)家康が死去すると、江戸幕府は次第に鎖国政策を取り始め、貿易を制限しました。このため貿易の根拠地としての浦賀は実現せず、アダムズの政治力も弱まり、元和6年(1620)4月、平戸で病没しました。逸見の塚山公園にはアダムズ夫妻の供養塔があります。
三浦半島は江戸湾の要衝にあり、政治的・軍事的に重要な地でした。幕府は三崎と走水に奉行を設け、海上の警備に当たり、その後、伊豆に下田奉行を置きましたが、享保5年(1720)に浦賀に移され、江戸に出入りする諸国の廻船は、すべて浦賀番所で船改めを義務付けたのです。このため浦賀湊は各地から物資を積んだ多くの廻船が入港し、町には干鰯問屋、廻船問屋、各種問屋などの商家が軒を連ねて活気を呈し、繁栄を極めました。これよりさき、砂村新左衛門によって久里浜の内川新田の開発事業が行われ、寛文7年(1667)に完成しました。高360石といいます。久里浜夫婦橋の傍に記念の供養塔が建っています。
やがて日本近海に外国船が来航するようになり、幕府は江戸湾防備の強化を図るため、浦賀奉行や諸大名に命じて沿岸警備の任務に当たらせました。文化7年(1810)奥州会津藩は三浦半島の走水から三崎城ケ島までの海岸防備を担当、鴨居腰越に陣屋を設け、翌年には鴨居平根山や城ケ島の御台場を建設しています。さらに川越藩のとき、大津村に陣屋が移設されて海防の拠点となり、以後、彦根藩、長州藩、熊本藩、佐倉藩などが、つぎつぎにその任務につき、猿島、旗山崎、観音崎、千代ケ崎などを含め18か所の御台場が築かれました。
嘉永6年(1853)6月、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーは軍艦4隻をひきいて、浦賀沖にいかりをおろしました。そして久里浜に上陸、日本の開国を要求するフィルモア大統領の親書を浦賀奉行に手渡しました。翌年1月再び来航して、日米和親条約が締結され、日本の長い鎖国は終りを遂げ、近代日本の幕開けとなりました。
久里浜海岸にペリー上陸記念碑が建てられています。
このペリー来航のとき、浦賀では奉行所の役人たちによって、洋式軍艦が建造されていました。安政元年(1854)5月に完成し、鳳凰丸と命名されました。日本近代造船史の巻頭を飾るものでした。万延元年(1860)1月、日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府軍艦咸臨丸がアメリカに向け浦賀湊を出航し、太平洋横断の壮挙につきました。

(5)近代(幕末・明治・大正)

外国艦船の来航によって幕府や諸藩は、国防上海軍力を強化し、艦船を建造・修理する造船所の設立が急務となりました。当時幕府勘定奉行の任にあった小栗忠順や目付栗本瀬兵衛らはフランスの援助のもとに、江戸近郊で立地に優れた横須賀を建設地に選定しました。慶応元年(1865)1月、フランス海軍技師ヴェルニーを招いて首長とし、同年9月27日に工事始めの鍬入式が挙行されました。この横須賀製鉄所(のち横須賀造船所)建設によって横須賀は近代都市への歩みが始まりました。
製鉄所の建設工事はヴェルニー以下のフランス人技術者の指導のもとに進められましたが、慶応4年(1868)幕府崩壊と共に明治新政府に引き継がれました。明治4年(1871)2月に第一号船渠が完成し、開業式が行われました。同年4月には横須賀造船所と改称され、翌年には御召船「蒼竜丸」が進水、明治8年3月には最初の軍艦「清輝」が進水しました。他方、フランスの技術は灯台事業にも貢献し、明治2年(1869)1月、観音埼灯台を点灯させました。日本最初の洋式灯台でした。さらに明治9年には走水~横須賀間に水道も完成させました。
当時日本最大の工業地であった横須賀には、発展と共に多くの逸材が集り、優秀な技術者等が育っていきました。明治9年3月首長ヴェルニーが帰国した後、造船所は日本人のみにより運営され、明治11年7月には軍艦「磐城」を進水させるなど、建艦技術も著しく向上していきました。明治17年(1884)12月、横浜の東海鎮守府が横須賀に移され、横須賀鎮守府と改称しました。鎮守府の移設は製鉄所の建設と同様、横須賀市域発展の大きな要素となりました。
この間、横須賀村は明治9年(1876)に横須賀町となり、汐留、小川、大滝、若松の各地先を埋立てて地域を拡張しました。明治初年僅かに206戸の寒村が、明治21年(1888)には3,094戸、人口1万5,852人へと激増しました。これは軍施設と官営施設の拡大・発展によるものですが、明治22年6月、軍の要請による横須賀線が開通すると、市街は更に膨張していきました。
このころ浦賀町では、東京石川島造船所の分工場建設が計画され、明治28年(1895)に船渠開削の鍬入式を行い、31年11月に開業、浦賀船渠株式会社も明治30年に起工式を挙げ、船渠等を建設して、33年に営業を開始しました。
横須賀造船所は海軍造船廠を経て、明治36年11月横須賀海軍工廠と改称し、日清・日露戦争を通じてその拡張と技術進歩は著しく、世界に誇る数々の艦船を建造していきました。あわせて東京湾防備のための砲台が観音崎、猿島、米が浜など沿岸各所に築造され、東京湾要塞司令部や要塞砲兵連隊が配備されるなど、陸軍の施設・兵員の拡充も図られていきました。
このため横須賀は軍都として急激に発展し、明治39年(1906)に隣接の豊島町と合併し、翌40年2月15日には待望の市制が施行され、横須賀市が誕生しました。戸数1万1,433戸、人口6万2,876人でした。当時の歌に「浦の苫屋に綱干しし磯はいつしか大都会」と唱われ、その後も小川、若松、深田、田戸、山崎の地先海岸を埋立て、下町とよぶ商店街を形成し、丘陵を削って上町とよぶ住宅街を造成しました。
大正12年(1923)9月の関東大震災では、市街地中心部に壊滅的な被害を受けましたが、将来計画を踏まえた復興計画がいち早く進められ、「震災前のすがたをしのぶ片影もない」といわれる現在の町並みに生まれ変りました。

(6)現代(昭和・平成)

昭和5年(1930)4月、横浜黄金町~浦賀間に湘南電気鉄道が開通し、さらに京浜急行電鉄との提携で、品川~浦賀間の直通が実現しました。このため京浜地方との交通事情は一層便利となり、近郊の開発なども飛躍的に発展しました。
明治以来の陸海軍施設は、その後も近隣町村へと拡大し、市域は広がっていきました。昭和7年7月大横須賀建設準備委員会が設置され、翌8年には衣笠村・田浦町を合併しました。次いで12年には久里浜村を合わせ、やがて太平洋戦争突入後の18年4月、浦賀町、逗子町、大楠町、長井町、武山村、北下浦村の近隣6か町村との合併を遂げ、人口35万余人、面積109.5km2の大軍港都市横須賀を造り上げました。
昭和20年(1945)8月、太平洋戦争は終結し、横須賀市は軍港都市としての立市の基盤を失いました。同年11月には人口が20万2,038人と激減します。市制施行以来の重大な岐路に立たされましたが、いち早く旧軍施設の平和産業への転換が図られていきました。昭和25年6月には「旧軍港市転換法」が制定施行され、平和産業港湾都市としての新生横須賀の再建に向って本格的に歩み始めました。この年逗子町が本市から分離独立しています。
昭和26年1月に横須賀港は重要港湾に、さらに準特定重要港湾に指定され、久里浜港、長浦港などの港湾施設が強化され、並行して旧軍用施設の積極的な転用が図られ転換企業の誘致が進められました。このため追浜、田浦、久里浜、西地区などに各種企業が進出、やがて工業団地も造成され、しだいに諸産業が発達し、戦後激減した人口も昭和40年10月には、31万7,411人と増加しました。このような市勢の発展に伴い各種利用計画による埋立事業も実施され、大津・馬堀地先、新港建設、安浦地先などが造成され、市域は拡大されていきました。この間、在日米軍・自衛隊による軍事施設も旧軍跡地に設けられ、平成20年(2008)3月現在、市域の6.3%を占め市民生活に与える影響も少なくありません。
やがて昭和59年4月には三浦半島を貫く高速道路(横浜横須賀道路)が、さらに平成4年3月に本町山中有料道路が開通しました。翌5年10月、汐入駅前地区第1種市街地再開発事業が完成し、国内最高レベルを誇るよこすか芸術劇場も開館しました。平成9年4月には、横須賀中央駅前広場等整備事業も完了するなど、社会資本の整備・拡充とともに、「国際海の手文化都市」を目指した都市づくりが進められています。
平成13年(2001)4月、本市は神奈川県内では初の中核市に移行しました。平成19年2月には市制施行100周年を迎え、今後とも三浦半島の中核都市として、また地方分権のフロントランナーとして一層の発展が期待されています。

 面積

本市は、明治40年(1907)市制施行時の市域面積は12.93km2でした。昭和8年(1933)に衣笠村、さらに軍事面で重要な意味を持った田浦町を合併し、市域は34.26km2になりました。この2町村の合併で弾みがつき、昭和12年には久里浜村を合併して市域面積は41.80km2となりました。昭和18年には三浦郡の面積の大半を占める浦賀町、逗子町、大楠町、長井町、武山村、北下浦村の6か町村を合併し、市域面積は109.50km2となりました。
しかし、昭和25年には旧逗子町が分離独立し、市域は96.06km2と減少しました。その後、公有水面の埋立などで、平成28年10月1日現在の市域面積は100.83km2(平成29年2月20日付国土地理院公表)となっています。

 位置

本市は、神奈川県の南東、三浦半島の中央部に位置し、東京から50km、横浜から20km圏内にあります。東周は東京湾、西周は相模湾にそれぞれ面しています。
市の北端(北緯35°19′50")は夏島町で、横浜市金沢区との境の平潟湾に面し、南端(北緯35°11′24")は長井で、三浦市初声町に接し、南北はおよそ15.8kmあります。
市の東端(東経139°44′48")は鴨居の観音崎で、東京湾口に面し、西端(東経139°34′34")は秋谷の長者ケ崎で、三浦郡葉山町に接し、東西はおよそ15.5kmあります。
市役所本庁舎の位置は、北緯35°16′53"、東経139°40′20"です。

 気象

本市は三浦半島の約60%を占め、東西が海に囲まれ、暖流黒潮が岸を洗い、暖冬涼夏の気候に恵まれています。亜熱帯植物浜木綿(はまゆう)の自生分布地としては本市が最北端です。

 

 

お問い合わせ

総務部総務課

横須賀市小川町11番地 本館1号館5階(総務・庁舎管理係、統計係)<郵便物:「〒238-8550 総務部総務課」で届きます>

電話番号:046-822-9704

ファクス:046-822-7795

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