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更新日:2017年2月27日

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3.真福寺

 

真福寺

(真福寺)

享禄元年(1528)僧・一誉清光の開山といわれます。
本堂は創建当時のもので金物類が一切使われておらず当時の造りをよく残し、重厚さが感じられます。
本堂のガラスケースにある大彫刻は、以前、庫裡の欄間にあったもので、一本の欅を両面から彫った見事なものです。作品名は「黄石公張良」といい、老人が橋から川(と思われる)に落とした履物を若者が拾おうとしている図です。作者は波(浪)の描写が得意とされる、幕末の安房の彫師(仏師)・武志伊八郎です。この作品も、波の描写が素晴らしく、浦賀に滞在したとされる葛飾北斎の波(浪)のダイナミックな描写と関連があるのではないかといわれます。黄石公は中国・秦末(前200頃)の隠士で、張良に兵書を授け老人です。張良はこの兵書を読み、前漢の高祖の天下平定をたすけたと伝えられています。
境内の観音堂には聖観音が安置され、三浦三十三観音の第十五番札所となっています。聖観音は秘仏で、普段は拝見できません。
この聖観音を安置した大きな厨子の前に、抱児観音が安置してあります。
子供を抱いた子育観音ですが、裳の端が魚の形になっており、ヘブライ語でイエスは魚を意味することから、キリスト教との関係が暗示され、マリア観音とも呼ばれています。関東地方では数少ないものです。
この観音堂は、もとは西浦賀の谷戸にあったのですが大正3年に大破したので、真福寺の檀家が真福寺境内に建て直し、寄進したものです。
観音堂内部の格天井には、花・鳥・魚など48枚の絵が描かれています。
この絵は、北斎に心酔した、同時代の地元の絵師によるものですが、構図・描態上から北斎に著しく似るといわれ、貴重なものとなっています。
北斎は、天保6年頃(1835)理由は定かではありませんが江戸を離れ、浦賀から少し離れた吉井の牛島あたりに潜居していたようです。
浦賀には北斎の母方の実家がありましたので、その関係もあったのでしょう。浦賀には何らかの理由があっていられなくなり、翌年には江戸に戻っています。自ら「画狂老人」と署名し、一生のうち数多く名を変え、浦賀時代には三浦屋八右衛門と称していたようです。北斎の実家は江戸で御庭番の役にあたっていたので、絵を描きながら諸国を回り、情勢を把握していたのではないかという説もあります。
墓地には浦賀の回船問屋である三次六兵衛の墓をはじめとした大店の墓や、三浦古尋録』の著者・加藤山寿の墓もあります。このお寺には、日光の素麺滝から移したと伝える枕返し地蔵(別名素麺地蔵)も祀られています。里人がこの地蔵に足を向けて寝たところ、目をさますと枕元にいたという伝説があります。

 

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