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東浦賀町二丁目(新井)にあります。
裏山を明神山といいますが、それは叶明神社が祀られていることによります。 『新編相模国風土記稿』に「拝殿は山下にあり、祭神は応神天皇で、 正保元年(1644)九月十九日に西浦賀の本社を勧請(神の分霊を迎えて祀ること)。 牛頭天王、船玉明神を合祀。」とあります。 しかし、叶神社の縁起には、養和元年(1181)に京都の高雄山神護寺の僧・文覚が石清水八幡 をこの地に勧請し、文治2年 (1186)に源頼朝が、源氏再興の願いが叶えられたので、 叶明神と改めたとされています。 また、別の伝えによれば、元禄5年(1692)に浦賀村が東と西に分かれたとき、 西浦賀村の叶神社を遷して祀り、西の叶神社を本宮、東の叶神社を若宮と呼んだともいわれています。 東叶神社は明治になるまでは、耀真山永神寺といい、古義真言宗醍醐寺派三宝院に属し、 横浜の金沢区から三浦半島全域において、本山格の寺格をもった修験道の寺でした。 お寺の時代には、この山頂で火渡り修行などが行われていたそうです。 お寺の格式が高かったことを示すこととして、4人の料理人が常にいて、 本格的な会席料理もできたということです。 これは、来客数が多いということだけでなく、来客の階層の高さをも想像させます。 玉垣を巡らせた境内の正面、石の鳥居は浦賀湾に面しています。 境内には白い砂がまかれています。 すぐ右手、御水屋の脇に大きな石が二つあります。 この石には人の名前と文字が刻まれており、この石が力持ち競技に使われたことがわかります。 社務所の前を通り過ぎると赤い鳥居があります。 石垣に開いた祠の奥には石の弁才天が祀られています。 祭神は「厳島媛命」で、海難その他の難事の際に、身代わりとなって人々を救う 「身代わり弁天」として祈願されています。 社務所の裏に井戸があります。 幕末に、遣米使節の護衛艦となった咸臨丸の艦長として、太平洋横断を成し遂げた勝海舟が、 航海前に、この井戸で水垢離をした後、山頂で断食したと伝えられています。 ペリー来航(1853)から咸臨丸出航まで7年たらず、長崎海軍伝習所での1年4か月間、 航海実習も、鹿児島訪問、長崎と江戸の間を数回往復した程度であり、 名にしおう冬の太平洋横断を行う艦長である勝としては、舟玉明神を祀る叶神社に、 切実な思いで祈願したであろうとは思います。 しかし、多忙な勝に、山頂で断食する時間的余裕があったでしょうか。 さて、境内に戻ります。 拝殿の前には一対の狛犬があります。 向かって右側は口を開いた阿形で、左側は口を結んだ吽形ですが、 ここの阿形は口の開きかたが小さいように見えます。 ここの狛犬はそれぞれ子を抱えており、右側阿形は子が乳を含み、 左側吽形は親が子を保護するほえましい姿です。 拝殿は、昔は日吉造り(滋賀県日吉神社が源)でしたが、現在のものは神明造り(伊勢神宮が源)です。 拝殿の左側の、山頂へ続く石段を登り始めてすぐ左側に 「丹ょ起丹ょ起と 帆ばし良寒き 入江哉」という、芭蕉句碑といわれているものがあります。 この自然石の句碑は、芭蕉の没後150年目の天保14年(1843)に浦賀の俳匠・福井貞斎が建てたものですが、 現存の芭蕉の記録には、この句がなく、芭蕉が浦賀を訪れた記録もないので、 いつどこで詠んだものか、はっきりしません。 しかし、浦賀の湊の情景をよく表現した句です。
東叶神社拝殿の左側から始まる200段を越える石段(恵仁志坂・産霊坂)
を登りきった山頂の正面にある奥宮は、小さいながら立派な彫刻のある本殿でしたが
火災により焼失しました。
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