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更新日:2016年12月7日

横須賀とフランスの歴史~横須賀製鉄所の建設と日仏交流


江戸時代末の嘉永6(1853)年、ペリー来航を契機として、幕府はそれまでの政策を改め、アメリカ、イギリス、フランスなどの欧米列強国と交渉しながら、開国に向けて動きはじめました。
こうした交渉の中で、幕府は自国や諸外国の艦船を修理したり、新たに艦船を建造するための本格的な造船施設の必要性を痛感するようになります。

 

幕府内の親フランス派であった栗本瀬兵衛(1822-1897)、小栗上野介忠順(1827-1868)、浅野美作守らは、フランス公使レオン・ロッシュ(1809-1900)に造船施設建設の話を伝え、協力を依頼しました。ロッシュは、大規模な造船施設を造る前にまず準備段階として小規模な工場を建設するよう幕府に進言します。この進言に基づいて元治元(1865)年、幕府は現在の横浜市中区吉浜町(JR石川町駅裏)に横浜製鉄所を建造します。横浜製鉄所の建造には、日本人技師の育成と、今後より本格的な造船施設を建造するために必要な設備などの準備という目的がありました。

そして同年11月15日、幕府は「横須賀製鉄所」の建設に着手しました。ヴェルニー
首長には、フランスの理工系学校の最高峰であるエコール・ポリテクニック出身のフランソア・レオンス・ヴェルニー(1837-1908)が選ばれ、およそ130名の技師、職工、医師,教師が横須賀村にやってきました。ヴェルニーは、後に幕府が崩壊の危機を迎えたときも帰国せず、自分に与えられた使命を最後まで終える決意を示します。こうして、横須賀には、フランスからさまざまな技術が輸入され、近代工業の最先端のまちとして発展していきます。

明治元(1868)年、江戸幕府が崩壊し、明治政府が樹立されると、横須賀製鉄所は明治政府に引き継がれました。そして明治4(1871)年には第1号ドックが完成し、いよいよ本格的に動き出します。横須賀製鉄所で建造された最初の軍艦は『清輝』といい、明治8(1875)年に進水しました。

施設の建設ばかりでなく、日本人技師の養成も緊急の課題でした。そのために製鉄所内に学校が建設され、そこで教えられた代数・幾何・解析・三角関数などは、当時の日本では最も水準の高いものでした。ヴェルニーと同じエコール・ポリテクニック出身のアドルフ・フランソア・ウジェーヌ・デュポン(1840-1907)や、エコール・サントラル出身のポール・ピエール・サルダ(1844-1905)などがその教育にあたりました。

フランスから導入された技術は造船技術だけではありません。その中のひとつに灯台の建設があります。観音埼灯台(1869年1月1日点灯)、品川沖灯台(1870年点灯)、野島埼灯台(1870年点灯)、城ヶ島灯台(1870年点灯)などのフランス式灯台は、灯台の専門家であるルイ・フェリックス・フロラン(1830-1882)をはじめとする横須賀製鉄所の技師によって建設されました。

また、製鉄所から約7キロメートル離れた走水から、製鉄所までの水道施設の整備も行われています。このことから横須賀は日本の近代水道の発祥の地のひとつとされており、横須賀製鉄所の残した重要な足跡と言えます。この水は今日でも「ヴェルニーの水」と呼ばれ、市民にも供されています。

このほか、フランス海軍の軍医ポール・アメデ・リュドヴィック・サヴァチェ(1830-1891)の横須賀村の村民に対する医療行為も、フランス医学の日本への導入という点で重要といえます。

横須賀製鉄所横須賀製鉄所・横浜製鉄所は、フランス人の鉱山技師を招聘した兵庫県の生野鉱山や、同じくフランス人技師の指導により明治5(1872)年に開業した群馬県富岡市の富岡製糸場とも深い関係がありました。横須賀製鉄所は生野鉱山から数百種類もの設備を受注しており、また富岡製糸場からは工場自体の建設を受注しています。また横浜製鉄所は生野鉱山からボイラーを、富岡製糸場から鉄製の大型水槽をそれぞれ受注しました。

元治元(1865)年、横浜フランス語学所が創立され、横須賀製鉄所や、このころ来日したフランスの陸軍軍事顧問団の通訳者がここで養成されました。さらに横須賀製鉄所内にも学校が創立され、ここで学んだ人達のなかで、辰巳一、桜井省三、黒川勇熊、山口辰弥など4人が、後に工学博士の学位を取得しました。

このように、横須賀製鉄所・横浜製鉄所は、フランスから日本への技術移転の中心的存在であり、日本の近代化の大きな推進力の一つとなったといえます。
(執筆:西堀昭氏(横須賀市文化振興審議会委員)