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更新日:2010年11月1日

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砂村新左衛門が内川新田の開発に着手(江戸時代)

江戸時代になると米の収穫量を増やそうと全国で大規模な新田の開発が行われるようになりました。
三浦半島は幕府の天領(直接治めている土地)でしたが、そこに宝六島新田(東京)や野毛新田(横浜)の開発で活躍した砂村新左衛門がやって来ました。

今の久里浜付近一帯は、佐原川、大川(平作川)、吉井川が流れ込む大きな入江で、その入江の奥(北久里浜辺り)には、葦などの草木がおいしげる自然のままの沼地が続いていました。
入江は、潮が引くと遠く久里浜港の方まで砂浜が顔を出し、ところどころに沼地や潮だまりができ、潮が満ちると浅い入江になって、今の久里浜港とつながってしまいました。

新左衛門は、この内川入江を見て、すぐに幕府に許可を得て自信をもって新田開発に着手しましたが、工事は難工事で思うように進みませんでした。
新田ができあがったのは、万治3(1660)年に360余石の検地を受けてから8年たった寛文7(1667)年になってからのことでした。

新左衛門は、内川新田の開発に半生をささげて、寛文7年に江戸の砂村で亡くなりましたが、その墓は久里浜の正業寺にあります。

内川新田(明治30年頃)

 

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