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更新日:2010年11月1日

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ペリー浦賀来航(中島三郎助が黒船乗船)(江戸時代)

ペリー上陸

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリー提督は、フィルモア大統領から対日交渉の全権を与えられ、最新鋭の2隻の蒸気船サスケハナ号とミシシッピー号、それに2隻の帆船プリマス号とサラトガ号を率いて浦賀沖に来航しました。

ペリー提督は始終、携えて来た大統領の親書を「直接日本最高の役人に手渡す」ことを主張しました。
幕府は、はじめて目にする蒸気船の威容に驚き、ペリー提督の強い態度に屈して、ついに6月9日(7月14日)、久里浜海岸に設けられた急ごしらえの応接所で、親書の受取りに応じました。

ペリー提督の一行はアメリカ人として初めて日本の土を踏み、アメリカ合衆国大統領の親書を幕府側の代表、戸田伊豆守(いずのかみ)、井戸石見守(いわみのかみ)に手渡し、日米の友好と通商を求め、港を開くよう要求しました。

はじめは鎖国政策を押し通そうとした幕府も、欧米の最新の文化を目のあたりにし、時代の潮流には抗しきれず、ついに長い間の鎖国政策を転換して翌嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、再び来航したペリー提督との間で「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、下田、函館の2港を開港しました。
日本は世界に向けての第一歩を踏みだし、「日本の近代化」がここから出発したといってよいでしょう。

画:ハイネ画・久里浜上陸の図(横須賀自然・人文博物館所蔵)

中島三郎助(1821-1869)

ペリー来航時、中島三郎助は浦賀奉行所与力でしたが、ペリー側に乗船を拒否されると、機転をきかして同僚の与力・香山栄左衛門を浦賀奉行、自分を副奉行と偽って日本人として初めて黒船に乗り込み、アメリカ側と交渉にあたりました。
その後日本初の大型様式軍艦「鳳凰丸」建造に尽力し、勝海舟たちと長崎海軍伝習所1期生として学ぶなど活躍しました。
幕府崩壊後は、榎本武揚とともに箱館戦争に参加しますが、明治2(1869)年5月千代岡台場で亡くなりました。

画:中島三郎助(1821年-1869年)(中島家所蔵)

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