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更新日:2010年11月1日

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三浦為通、三浦郡を領し、衣笠城を築く(平安時代)

三浦氏のはじまり

平安時代後期から戦国時代初期にかけて、三浦半島で勢力をふるっていた武士は三浦一族でした。
三浦一族のはじまりは、桓武天皇(平氏)の皇子の子孫の流れをくむ村岡為通(ためみち)であるといわれています。
為通は源頼義にしたがって前九年の役に参加し、その功績が認められて三浦半島を与えられ、三浦氏を名のったといわれています。
為通は三浦半島のほぼ中央部にあたる衣笠に城を築きました。為通の子為継は源義家に従って後三年の役で活躍し、またその子義継は子義明と共に天養元(1144)年、伊勢神宮領の大庭御厨(おおばのみくりや・神奈川県藤沢市)に侵入する源義朝を助けるなど、三浦氏は源氏と深いつながりを持ち、相模国で最大の武士団に成長します。

 衣笠城の合戦

治承4(1180)年、三浦大介(おおすけ)義明は源頼朝の挙兵に呼応して、子義澄ら一族等を石橋山(神奈川県小田原市)の合戦に馳せ向かわせました。
しかし、合戦には間に合わず衣笠城に引き返しましたが、間もなく平家方の河越・江戸・畠山の大軍に衣笠城を攻撃されます。

写真:(左)三浦大介義明象、(右)衣笠城址「衣笠合戦」といわれる壮絶な戦いでしたが、衣笠城は落城、年老いた義明は討死し、他の一族は久里浜から海を渡って安房(千葉県)に逃れました。
安房で頼朝と会した三浦一族は、その直属軍として頼朝を助け、東国の諸豪族と共に武蔵を経て鎌倉に入り、頼朝はこの地に鎌倉幕府を開きました。

頼朝は義明の忠死をとむらって衣笠城に近い大矢部に満昌寺を建てました。
また頼朝は義澄を相模守護に、義明の孫和田義盛を侍所別当に任じるなど、義明亡きあとの三浦一族を重く用います。

その後も義澄の子義村が政治的手腕を発揮し、三浦氏は幕府の中でも北条氏と肩を並べるほどの勢力をもちました。
しかし、宝治元(1247)年、義村の子泰村の時に、北条時頼の謀略によって一族のほとんどは滅亡してしまいました。この宝治合戦では、一族のなかでも庶流の佐原義連(よしつら)の孫である光盛や盛時ら兄弟は北条氏に味方したため、三浦介を名のることを許されます。

図:三浦一族系図

 新井城の合戦

盛時の玄孫時継は中先代の乱(建武2(1335)年)で北条時行に属しましたが、その子高継は足利尊氏に従って勲功があり、相模大介職以下父の遺領等を与えられました。
その後代々相模守護として威勢を振るい、さらに時高、義同(よしあつ)に至り、再び相模国に覇を唱える勢力となりました。

しかし永正13(1516)年、相模国に野心を持つ北条早雲によって義同、義意(よしおき)の父子は新井城の合戦で滅ぼされ、ここに三浦一族は滅亡し、三浦半島は小田原北条氏が支配するようになりました。その小田原北条氏も天正18(1590)年に豊臣秀吉に滅ぼされ、以後、三浦半島は徳川家の領地となります。

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