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更新日:2017年2月27日
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貝塚からの出土品 縄文時代中期の土器「阿玉台式土器」 縄文時代中期の土器 「加曽利E4式土器」 古墳時代前期の土器 |
【開催期間:平成3年2月13日~2月28日】
今回は、歴史的な風土の色濃い浦賀で、後世の子どもたちに遺跡や史跡を残していくことを真剣に考える機会となりました。 浦賀の歴史は、江戸時代の浦賀奉行所や燈明堂、明治時代以降の浦賀ドックなど、港の歴史が注目されてきました。しかし、浦賀には9千年以上の昔から多くの人々が生活していました。吉井貝塚・高坂貝塚・中台貝塚・江戸坂貝塚及び上の台遺跡・平根山遺跡・小原台遺跡と数多くの貝塚か遺跡が残されています。
吉井貝塚 かつて内川新田のあった平作川の低地を望む吉井の台地上にあります。縄文時代早期の貝塚は大きく成長したマガキやハイガイなどからなり、中期の貝塚はイシダタミガイ、スガイなどの小型の巻き貝が中心でした。また、大型のクロダイやマダイなどの磯魚の骨も多く出土しています。 江戸坂貝塚 久比里坂というバス停留所がありますが、このバス停留所の東側に延びる大地の北側斜面に残されています。貝塚は縄文時代中期のものしか確認されていませんが、土器は早期から後期に至るものが発見されており、縄文時代の長い時期にわたって人々がムラを営んだものと考えられます。この貝塚からは、鹿角を利用した釣針や土器片錘と呼ばれる網などのおもり、朱で塗られた縄文土器が出土しています。 高坂貝塚 高坂小学校のある台地の斜面に残されています。大正時代に高坂小学校が建設された時には、工事中に人骨2体と鹿角を利用した斧や縄文時代後期の土器などが出土し、平成元年の発掘調査では、スガイやクボガイの堆積した貝層や鹿角を利用した釣針、イノシシの牙を利用した矢じりと考えられる道具や安行1式土器と呼ばれる縄文時代後期の土器などが出土しました。 上の台遺跡の弥生集落 昭和42年、横須賀市立上の台中学校の建設に伴う発掘調査で発見されました。弥生時代中期から古墳時代前期にかけての141軒もの竪穴式住居が出土され、三浦半島の東京湾側で営まれた最も規模の大きなムラであることがわかりました。この台地に住んだ人々は、北側に入り組んだ谷戸に水田を営み、稲作りを行ったと推定されますが、アワビ鉤、アワビおこしと考えられる鉄製品や多量の土錘の出土から、縄文時代からの伝統的な漁撈活動も生活の糧となっていたと考えられます。 |
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