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更新日:2017年2月27日

ページID:38452

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船・・・浦賀の歴史とのかかわり

1渡船の古い写真

2燈明堂油代金の変遷

3船のシルエット(200分の1スケール)

4清喜丸(宮井氏所蔵)

 

 

【開催期間:平成5年9月19日~10月4日】

 

浦賀発展の歴史は、地理的な自然条件に恵まれた港と船とのかかわりを除いては考えられません。今回は、浦賀にゆかりのあった船のシルエット、船の模型や写真、絵図等の展示を通して、浦賀の歴史を考える機会となりました。

浦賀の歴史と船とのかかわりは、縄文時代の人々の生活にまで遡ることができます。それは、走水の日本武尊と弟橘媛の伝説で船が登場し、さらに、衣笠に居城を構えた三浦一族の水軍の基地が吉井の怒田城にあったためです。このように浦賀は、海や船とは切り離すことができない環境でありました。

現在の浦賀港は、戦国時代に後北条氏が東浦賀の叶神社裏山に「浦賀城」を築き、水軍の基地を造ったことに始まります。江戸時代に入ると国内商業港としての地位を確立し、奉行所が下田から移転してくると浦賀の町は更に発展し、商人の中には全国を相手にした商売をする者も現われ、大きな廻船を持つ者が出てきました。さらに明治時代になると「浦賀ドック」が造られ、浦賀は商業の町から造船の町へと転換していったのです。

1渡船

渡船の歴史は古く、創業は浦賀が東西二つに分かれる前の元禄時代以前にまで遡ると言われています。また、全国的にも珍しい海の上の市道2073号線として、浦賀の東西を結ぶ「生活の船」ばかりでなく、現在はポンポン船などと呼ばれ「浦賀のシンボルの船」として活躍しています。

2燈明堂油代金の変遷

燈明堂は慶安元年(1648年)に幕府の命によって建てられたもので、江戸湾を航行する船の安全と浦賀湊への目印でありました。現在の燈明堂は平成元年(1989年)に横須賀市で復元したものです。

3船のシルエットコーナー

左より、黒船、鳳凰丸、咸臨丸です。

4清喜丸(廻船問屋の船)

この弁財船(通称千石船)の模型は、江戸末期から明治中期にかけて、浦賀の問屋「万清」(宮井清左衛門)が、瀬戸内海より仙台石巻の間を主に酒や米、塩を販売運送するために所持していた4隻の廻船の1隻で、千石積清喜丸を復元したものです。

お問い合わせ

民生局地域支援部浦賀行政センター

〒239-0822 横須賀市浦賀5丁目1番2号 

電話番号:046-841-4155

ファクス:046-842-7511

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