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更新日:2017年2月27日

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幕末の浦賀与力・中島三郎助の活躍とその生涯

パンフレット表紙

展示のようす

浦賀奉行所跡

〔開催日程:昭和59年5月18日~5月27日〕

今回は、浦賀奉行所の役人(与力)としてペリーの来航時に黒船に乗り込み、折衝に当たった中島三郎助の生涯をたどる展示を行いました。

中島三郎助の生涯は、日本に近代化の嵐が吹き荒れる激動の時代に、その真っ只中を幕府の役人(与力)として、また一人の武士として忠実に生き抜いた49年間でした。

幕末の文政4年(1821年)に浦賀奉行所の与力・中島清司の次男として生まれた三郎助は、14歳で奉行所に出仕します。その後、アメリカ船モリソン号砲撃事件(天保8年(1837年))、アメリカ人ビッドルの来航(弘化3年(1846年))、さらに、嘉永6年(1853年)のペリー来航を目の当たりにして、日本でも大型軍艦を持つことの必要性を説きました。

そして、軍艦造船にあたり委員の一人として活躍、翌年の5月には着工以来わずか8カ月という短期間で、日本人の手による最初の洋式軍艦「鳳凰丸」の誕生となります。この後、三郎助は長崎海軍伝習所の第1回生として派遣され、勝海舟や榎本武揚らとともに造船・操船技術を習得し、近代造船学の指導的な立場になりました。

一方、三郎助は父の教育を受け、幼少の頃から和歌、俳諧、漢詩文など風雅の道にも才能を発揮しました。ことに俳諧においては俳人・木鶏の名をほしいままにし、江戸にまでその名が知られていました。福沢諭吉が残した『福翁自伝』にも浦賀の立派な武士として書き記されています。

慶応4年(1868年)に明治新政府が樹立されると、榎本武揚らとともに函館に向かい、旧幕府勢力を中心とした政府の樹立を目指します。しかし、翌年の5月に二人の息子恒太郎、英次郎とともに新政府軍の砲弾に倒れ、49年の生涯を閉じました。

その後、明治24年(1891年)に、中島三郎助を追慕する人々の手により浦賀港を見渡す愛宕山公園に中島君招魂碑が建てられました。中島三郎助を近代造船の父と慕い、彼の業績を偲ぶ人々の手により造船所の建設が提案され、浦賀は日本を代表する造船の町として新たなスタートを切ることになります。

お問い合わせ

民生局地域支援部浦賀行政センター

〒239-0822 横須賀市浦賀5丁目1番2号 

電話番号:046-841-4155

ファクス:046-842-7511

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