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更新日:2017年2月27日
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1浦賀船渠(株)ドックの建設工事 2明治中期の浦賀港 4新「日本丸」 5新「日本丸」進水式典で使用した斧 |
【開催日程:昭和63年6月16日~6月30日】
今回は、浦賀湊が干鰯商いで栄えてから造船工業の町として発展するまでの歴史をたどる機会となりました。 浦賀は、弟橘媛の物語や850年前に源氏の勢力再興に関わりのあった叶神社の史跡などにその始まりを見ることができます。 また、室町期の文明18年(1486年)には聖護院道興准后が諸国巡行の折、浦川(久比里)に立ち寄り「茲(ここ)は昔頼朝公の鎌倉に住み給う時、金澤、榎戸、浦川とて三つの湊なりとかや」と述べています。 江戸期に入り享保年間(1720年前後)に伊豆の下田から浦賀に番所が移されました。さらに江戸時代後期の嘉永6年(1853年)6月の黒船来航を契機に日本は近代化への歩みを進めていきます。明治20年代後半にはわが国で初めてのレンガ造りによるドックが建設され、浦賀はわが国屈指の造船工業の町として発展していきます。
〔展示物の概要〕 1浦賀船渠(株)ドックの建設工事 写真の右斜め上でドックが掘られているのがわかります。また左下のものは石材で護岸を築く材料と思われ、浦賀船渠(株)の創立期の様子が窺えます。 2明治中期の浦賀港 東浦賀から西浦賀を望む写真です。港中央に見える二本マストの船に煙突がないところから想像すると、当時、一般的には帆船が利用されていたと思われます。 3干鰯浦高札覚 干鰯の荷揚げで栄えた東浦賀では、時代が下ると問屋を仲介せずに直接江戸に干鰯を納める業者が現れるようになり、干鰯問屋の商いは減少していきました。しかし幕府は、運上金を差し出させていたことから、干鰯の十分の一を東浦賀での荷揚げに義務づける旨の通達を出しました。これが東浦賀で干鰯問屋を営んでいた商店に、今も残る浦高札の覚と呼ばれるものです。 4新「日本丸」 かつて、背の高い帆船のことをトール・シップと呼んでいました。高いマストに張られた純白の帆に風を受けて海上を進みます。この新日本丸は伝統的な帆船の様式にならい、前部の三本マストに横帆、最後部のマストには縦帆を備えるバーク型と呼ばれる型式の帆船で、全長110メートルの船体には、36枚の帆、2,500本のロープが使用されています。 5新「日本丸」進水式典で使用した斧 昭和59年2月15日、浦賀港では15,000人の人々に見守られて、美智子妃殿下(当時)のご臨席により、進水式が行われました。この斧は、船台に船を支えていた綱を切断するために使用されました。 |
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