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更新日:2026年9月16日

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三浦一族通信【前編】横須賀のルーツ三浦一族の軌跡 衣笠から鎌倉そして全国へ

鎌倉時代に活躍し、その軌跡が市内の随所に残る三浦一族。その魅力を3回にわたってお届けします。今回は【前編】として、横須賀のルーツである三浦一族の登場からその広がりまでを紐解きます。

執筆:山城ガールむつみ
監修:三浦一族研究会

三浦一族の登場

平安時代の終わり頃、「三浦」を名字とする武士団が歴史の表舞台に姿を現します。三浦一族は桓武平氏の流れをくむと伝わり、前九年の役の功によって初代為通が相模国三浦を領したことが、その始まりとされています。為通の実在には諸説ありますが、二代為継は確実に存在した人物で、後三年の役では源義家に従って活躍しました。その雄姿は『後三年合戦絵巻』にも描かれ、この頃にはすでに三浦一族が力強い存在感を放っていたことがうかがえます。そして四代義明の時代、日本の歴史は大きく動き始めます。平治の乱で敗れ、伊豆へ流されていた源頼朝が挙兵。いわゆる源平合戦の幕が開いたのです。

三浦一族の系図

衣笠合戦と頼朝の鎌倉入り

頼朝に味方した三浦一族の衣笠城へ、畠山重忠ら平家方の大軍が押し寄せ、「衣笠合戦」が起こります。一説には三浦方三百騎に対し、平家方は三千騎とも伝わります。一族は必死に戦うも敵わず、八九歳とも伝わる義明を残し、夜陰に紛れて城を脱出。久里浜から舟で安房へ渡り、再起を図りました。ひとり衣笠城に残った義明の最期には諸説ありますが、大矢部には、死を悟った義明が自害したと伝わる「腹切松」の伝承が今も大切に語り継がれています。

安房に渡った三浦義澄らは、石橋山合戦で敗れて真鶴から逃れてきた頼朝と合流し、進軍を開始。わずか一カ月半後に鎌倉入りを果たします。この進軍では、三浦一族が平家軍を退け頼朝を守り抜きました。三浦一族の活躍がなければ、頼朝の鎌倉入り、ひいては鎌倉幕府の成立はなかったとも評価されるほど、日本史上きわめて重要な役割を果たしたのです。

全国へ広がる三浦一族

鎌倉幕府成立後、筆頭御家人として重きをなし、三浦義村は北条義時・政子から厚い信頼を得て幕府を支えました。義村の死後に起きた宝治合戦で本家は滅亡しますが、分家の佐原氏がその名跡を継ぎ、北条早雲によって新井城が落城するまでの四百年以上にわたり関東の歴史の中で、中心的な存在として活躍したのです。三浦半島の大地には、中世を生き抜いた一族の鼓動が、今も静かに息づいています。また、三浦一族は各地に所領を得て、全国津々浦々へ広がりました。会津蘆名氏、美作三浦氏、越後和田氏、周防平子氏など各地で守護や地頭、さらには戦国大名・国衆として活躍した一族は数え切れません。三浦半島で生まれた一つの武士団は、やがて全国へ枝葉を広げ、日本の中世史に大きな足跡を残したのです。

三浦一族分家の広がり

次回は、三浦一族の運命の岐路に迫ります

三浦一族通信【中編】は9月23日に更新予定です。

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