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更新日:2026年9月23日

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三浦一族通信【中編】三浦一族本家滅亡の大事件「宝治合戦」

鎌倉時代に活躍し、その軌跡が市内の随所に残る三浦一族。その魅力を3回にわたってお届けします。今回は【中編】として、北条氏、安達氏との戦い「宝治合戦」について紐解きます。

執筆:山城ガールむつみ
監修:三浦一族研究会

三浦一族の運命の岐路

宝治元年(一二四七年)、鎌倉の空気が張りつめるように重くなる中、三浦一族は運命の岐路に立たされます。最盛期を築き、筆頭御家人として幕府政治の中心にいた三浦義村が没し、子の泰村が跡を継ぐと、執権北条氏の外戚として勢力を伸ばす安達氏との対立が一気に深まりました。さらに、将軍頼経をめぐる政争が幕府内部の緊張を高め、ついに安達氏は三浦氏への攻撃に踏み切ります。こうして三浦氏と、北条氏、安達氏の戦い「宝治合戦」が勃発しました。

安達軍は西御門(鎌倉市)にあったとされる泰村の館へ火矢を放ち、追い詰められた泰村と弟の光村は、頼朝の墓所である法華堂に一族郎党と逃げ込みました。そして、彼らは頼朝の御影の前で自害したと伝わります。三浦一族二七六名、郎党を含め五百余名。三浦宗家はこの日、壮絶な最期を迎えました。光村は、三浦の血を途絶えさせる悔しさと無念から、死後に自らの顔が判別できぬよう何度も刀で切り刻んだといいます。それに対し、兄・泰村は血で頼朝の御影を汚さぬよう光村をたしなめるほど冷静だったとも伝わります。

このように本家は滅びましたが、分家の佐原氏は北条方に味方したため、佐原盛連と矢部禅尼の子である光盛、盛時、時連は有力御家人として生き残りました。光盛の系統は戦国大名会津蘆名氏へ、三浦介を継いだ盛時の系統は三浦道寸へと続き、時連の系統は美作三浦氏などとして発展しました。

三浦一族のやぐら

三浦一族のやぐら(鎌倉市西御門)

三浦一族存続のキーマン 矢部禅尼

矢部禅尼は三浦義村の娘で、北条義時の嫡男三代執権北条泰時と結婚しました。翌年には跡継ぎとなる時氏が生まれ、執権家の嫡母となりました。その後、泰時と離縁して佐原盛連に再嫁しますが、北条氏との深い関係は続いていたようです。彼女の孫にあたる経時、時頼が四代、五代執権となったこともあり、宝治合戦で佐原氏は北条方に味方しました。まさに矢部禅尼の存在が佐原氏と北条氏を結び付け、三浦一族存続の鍵を握ったのです。

次回は、山城ガールむつみさんと衣笠をめぐります

三浦一族通信【後編】は9月29日に更新予定です。

三浦一族通信【前編】はこちら

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