更新日:2024年12月3日
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「市長の独り言」は上地市長が率直な言葉で思いを語るコラムです。
(新型コロナウイルスの感染症法上5類移行に伴い、令和5年6月号より再開いたしました)
10月の最終日曜日に、恒例のみこしパレードが行われた。今年は天候にも恵まれ、50基以上の神輿と山車のパレードは圧巻だった。「セイヤ、セイヤ」の掛け声や、お囃子の音色は、人々を元気にする事を改めて実感したが、道行く人々の明るい笑顔を見ながら、5年前の出来事を思い出した。
その日、いつものように桟敷席で神輿を迎えていると、ガラの悪そうな半纏姿の男が近寄って来た。久しぶりに会う幼馴染の親友だった。「おう!元気か?」と聞くと、「イヤ、実は、癌が見つかってさ、今年中って言われたよ」との返事。一瞬、周囲の音が消え、頭が真っ白になり、「本当か?」としか返せず、それ以降、誰に会って何の挨拶をしたか全く記憶がなくなった。
公務終了後、彼の自宅に駆けつけると、何カ月も体調不良であったが医者嫌いが災いし、漸く病院に行った時には、手の施しようがなくなっていたとの事。若い頃から、いつも私の事を心配し、傍に寄り添い、応援してくれた彼に、何もしてやれない自分がただただ情けなく、かける言葉が見つからなかった。
今でもパレードの度に彼の影を追ってしまう。もうすぐ迎える命日には、今年も酒をお供えしながら「飲み過ぎるなよ。」と声をかけてこようと思っている。
一昨年11月に妻が旅先で転倒し、右手を骨折。その日以来、私の、朝のごみ出し生活が始まった。
妻のケガが完治してからは、元に戻ってよい筈なのに、妻はスッとぼけて知らん顔を決めこみ、(家庭では)弱気な自分から「もうお前がやれよ!」とは言い出せず、今日に至っている。
最初のうちは、ジャージにサンダル履きでごみ出ししている姿に、通りがかりの中学生から二度見されたり、近所の人にはビックリされて、「今日は、どうしたんですか?」と聞かれた事もあった。しかし、2年も続くと近所の方々も見慣れたらしく、当たり前の光景として朝の挨拶を交わし、たまに井戸端会議(みたいなもの)にも、時を過ごすこともある。
何故、この仕事が続いているかというと、意外と嫌いではないからだと、自己分析している。家中のごみ箱の中身を分別して、なるべく軽量化しながら、ごみ出しするのは、終わるとスッキリする事に気づく。そして、何より、ごみの減量推進の重要性を、強く実感することができるのだ。
とは言え、果たしてこのごみ当番の任期は、いつまで続くのだろうか…。
昨年度より全国基地協議会の会長を拝命しており、会議に出席の為、宮城県東松島市を訪問した。
東松島市は東日本大震災で市域の約36%が津波の浸水被害を受け、1,100名以上もの方が亡くなり、現在も行方不明の方がいらっしゃる等、甚大な被害を受けた自治体であり、震災復興伝承館も見学させて頂いたが、本当に胸が詰まる思いだった。
この被災経験から、防災への取り組みには危機感や緊迫感を感じさせるものがあり、とりわけ様々な災害を想定した豊富な備蓄物資、更にはその備蓄基地の合理的管理を民間に委託する等、目を見張るものがあった。
横須賀市でも能登半島地震以来、防災予算を増額し加速度を上げて取り組んでいるつもりであったが、まだまだ至らぬ思いを強くし、早速、防災担当者に視察を指示した。基地協議会の日程にも関わらず、図らずも災害に関して大きな収穫を得ることができた。
視察の最後に、54ホールにおよぶパークゴルフ場やバーベキュー場を備えた緑地公園を訪れた。あまりの広さに思わず「こんなに広い平らな土地があって羨ましい」と漏らしてしまったが、「かつては住宅地でしたが、津波で全部流されてしまったので、県に買い上げてもらい整備したものです」との事。自らの無神経な言葉に、心から恥じ入った。
7月に横須賀市の姉妹都市である、フランスのブレスト市に視察に行って来た。
今回は、6年ぶりの訪問で、4年毎に開催されている国際海洋フェスティバル(前回はコロナで中止だった為、8年ぶりの開催)を視察するのが主な目的だった。
ブレスト市は、パリから飛行機で1時間程の大西洋側にある港湾都市で、横須賀市にも縁のあるヴェルニーが働いていた海軍工廠もあり、横須賀市とは54年間も姉妹都市として、交換学生の派遣だけでなく、それぞれの市役所職員も定期的に交流している。
海洋フェスは、約1週間で70万人もの人出のある賑やかな博覧会であったが、中でも、市の施設見学で訪れた、元々造船所だった巨大な建物が興味深かった。そこは、造船の歴史を展示しているのだが、図書館、ギャラリー、ショップ、レストラン等も併設しており、1階の広いオープンスペースは(特に遊具などは、ないのだが)、多くの家族連れが思い思いの時間を過ごしていた。
このような何もない大きなフリースペースを持つ屋内施設も、跡地の有効利用の一つなのかもしれない。
先日、都内に住む孫娘が遊びに来た時の話。
電車通学している彼女は、下校時、改札口で困っているお爺さん(歳は、私より若いかもしれない)がいたので、声をかけようと思ったが、いつも母親から、「困ったフリをしている悪い人がいるかもしれないから、気をつけてね。」との注意を思い出し、迷った挙句、駅員さんを探して、「あのお爺さん、困っているみたいなので、助けてあげて下さい。」とお願いしたとの事。
「それは、偉かったね~。」と、見て見ぬふりをしなかった事を褒めたが、ちょっと待てよ。
我々は、幼い頃から、困っている人がいたらすぐに助けましょう!と教わり、子ども達にも、そのように教えて来たが、今の物騒な世の中は、それが許されなくなってしまったのか?
いつから、日本はこうなってしまったのだろうか?と、暗澹たる気持ちになってしまった。
私は人の良心を、信じたい。「誰も一人にさせないまち」には、そんな想いを込めている。
6月の第三日曜日は、「父の日」だった。
思えば、幼い頃の我が家は、特別な食事をする訳でもなく、プレゼントも用意しなかった。学校の先生からも、「明日は、父の日だから、『お父さん、ありがとう!』と、言いましょう」などと言われた記憶もないし、言われたとしても、頑固一徹な親父に反発しか感じていなかったから、「ありがとうなんて言えるか」という感じだったろう。
調べてみると、「父の日」は、日本では、1980年頃から広まった風習らしいが、結婚してから、毎年妻が両家の父にプレゼントを届けるのを見て、世の中には、そんな習慣があったのかと、ビックリしたのだった。
父が亡くなって11年になり、今思うと、「ありがとう」の一言くらい言っておけばよかったと後悔しているが、まさに、「孝行したい時に、親はなし」。
親父のことだから「よかった、ありがとう」を提唱している私を、あの世で嘲笑ってるだろうな。
先日、暫くサボっていた早朝散歩に行くと、海辺で熱心にカメラを向けている男性に出会った。
思わず、「いい写真が撮れましたか?」と話しかけると世間話に発展。聞くと、男性は、義母の介護の為、10年前、家族で川崎から引っ越して来られたとの事。
さぞかし大変な毎日を過ごされているのかと思いきや、「毎日違う表情を見せてくれる海を眺めるのが愉しみで仕方ない。素晴らしい自然に囲まれて、とても幸せです。」と、さらっと話された。
思えば、人口流出や経済復活への現実対処が、常に頭から離れず、自然に対する憧憬や生かされているという感性が鈍くなっている自分に恥じ入った。
思わぬ出会いの中で、忘れかけていた大切な事を気づかされたと共に、横須賀の自然を満喫している姿に触れ、爽やかな朝の散歩となった。
やはり、早起きは三文、いやお金では買えない徳がある。
先日、ある会合で、「私の初恋は、保育園の先生です。」と告白したところ、其れ以降、お会いする保育関係の方々に、「本当ですか?」と聞かれるが、本当です。
その先生は、優しいだけでなく、凛とした佇まいが、子ども心に感じられる大好きな先生だった。今思えば、その頃のお袋は、家業の菓子屋の店番に幼い弟の世話、亭主関白な親父の世話と、日々忙しく、なかなか、相手をしてもらえなかった淋しさもあったのだろう。保育園で、優しく話しかけられる事が、何より嬉しく、褒められたい一心で、いつもお利口さんでいたのだった。
今、90歳を優に過ぎた先生から、毎年必ず、達筆な年賀状を頂く。暖かい励ましの言葉に、今も見守ってくれているのだなあと胸が熱くなり、又、褒められるように、頑張ろう!と、決意を新たにするのだった。
今も初恋は続く。
「建築界のノーベル賞」といわれるプリツカー賞を山本理顕さんが受賞した。
山本氏は、横須賀美術館の設計者であり、自然との調和を意識し、その景観に溶け込むガラスの外壁に囲まれた圧巻の佇まいは、以前から高い評価を受けていた。思い起こすと、美術館建設の是非は、当時大きな政治問題だった。市議時代、財政的な見地から、当初は反対の立場だったが、山本氏を訪ね、様々な意見交換を行い、積極的に美術館の運営や手法についての提言も行うようになった。山本氏は、「住民同士の助け合いによる地域社会の創造」という建築哲学を持たれ、私自身の目指す社会と考え方が一致し、意気投合したのだった。
今回の受賞を知り、早速、電話で祝意を伝えたところ、「一番喜んでいるのは、市長だと思った。」と言われ、あの頃の様々な葛藤がこのような形で昇華できた事は、本当に嬉しい。
3月というと、卒業シーズンだが、私が今までの人生で最も感激したのは、自分自身の卒業式ではなく、子ども達の保育園の卒園式だ。
当時、共稼ぎだったので、保育園には、毎朝一緒に登園しており、卒園は、ことのほか寂しさが募った。
特に次男は、1歳2ケ月から5年間登園していたので、当日は、様々な思いが駆け巡り、開式早々、ウルウルしていたのだった。そして最後は、「蛍の光」でも「仰げば尊し」でもなく、まさかの「七つの子」を出席者全員で合唱。
その物悲しいメロディーで、「カラス~♪ なぜなくの~♪」と歌い始めると涙線崩壊で、号泣状態になってしまい、鼻水はズルズル、涙が止まらず、恥ずかしい思いをしたのだった。
私にとって卒業曲は、間違いなく「七つの子」である。
幼い頃から、12月に入ると憂鬱だった。
それは、毎年暮れには、家業の餅菓子屋のちん餅の手伝いが控えているからだった。今と違って、餅は正月しか食べられなかったから、各家庭からの注文も多く、一日300枚以上ののし餅を、早朝から深夜まで家族総出でやるのだから大変だった。子どもの頃から、もち米を運び、研ぎ、手返し等は、自分と弟の仕事だった。
体力的にもきつかったが、何より緊張するのは、お供え餅を作る時だった。直径50センチ以上のお供えを、職人気質の親父が上手に丸めるのだが、餅は、直ぐに冷まさないと割れてしまう為、弟と二人で、必死に団扇をあおぐのだ。
しかし、運悪くヒビが入るようなら、親父の顔色が変わり、失敗作の餅を投げつけられる。その度に、投げられる餅を巧みに避けながら、「何でこんな家に生まれたんだろう…」と恨んだものだった。
毎年、餅を食べる度に、あの辛さを思い出すが、そのおかげで現在でも、餅の手返しだけは自信がある。
子どもの頃、町内の相撲大会では「克の山」の四股名で、活躍した。(弟は太っていたので、家業と重ねて「団子山」だった。)
さて、大相撲秋場所は、若手の熱海富士の活躍で大いに盛り上がった。残念ながら優勝には届かなかったが、来場所も活躍が楽しみだ。
この熱海富士の四股名が、久し振りにいい四股名だな~と感心している。出身地のついた四股名の力士には、地元の人達の応援もひときわ力が入るのではないかと思う。子どもの頃、地元出身の廣川関を応援したのが、懐かしい。
将来、「横須賀山」、「横須賀海」、「海の横須賀」なんていう四股名の力士が出てこないかな~と心待ちにしている。
若い頃から、詩を愉(たの)しむというには、程遠い人生だったが、唯一、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は大好きで、今でも全て覚えている。
特に、「東ニ病気ノコドモアレバ」「西ニツカレタ母アレバ」の件は、本当にそんな人間に近づきたいと思い続けてきた。だが「慾よくハナク 決シテ瞋いかラズ イツモシヅカニワラッテヰル」との心境には程遠く、いつも怒ってばかりの人生に時々反省するも、その度に、政治家のエネルギー源は不条理に対する怒りだから仕方がない、と勝手な言い訳してきた自分も来年は古希。
様々な評価もあるが、37歳で早逝した熱心な仏教徒であった賢治の作品を、ゆっくり読み返してみたい。読書の秋…。
引用:宮沢賢治『雨ニモマケズ』
5年程前の9月のある朝、我が家に突然、花束が届いた。送り主は、嫁と孫の連名だった。
はて、誕生日ではないし、父の日、母の日は、とっくに過ぎている。妻と二人で、何かの間違いだろうと話しながら、テレビをつけると、ワイドショーでは、「敬老の日」の大合唱。妻は「これだわ!」と、合点がいったようで、早速、嫁に電話。「逗子のおばあちゃん(その当時95歳でご健在だった)に届けるお花が、間違えてこっちに送られて来たようだけど、どうしようか?」と尋ねると、「それは、横須賀に送ったもので、逗子には、別に贈ってあるんです!」と、まさかの返事。
そこで初めて気が付いた!私達夫婦も、いつの間にか、「敬老の日」で祝ってもらうおじいちゃん、おばあちゃんになっていたのだった。
おかしいな。俺はもっと若いはずなんだが・・・。
最近、時代劇チャンネルにハマっている。週末の深夜、録画していた番組を一人で見るのが何よりの楽しみだ。
そこには、片岡千恵蔵、中村錦之助、大川橋蔵など往年の大スターが続々登場し、皆、ちょんまげがよく似合っている。セット等、今の映画から見たら、実にチャチだが、それも愛嬌に感じられる。ストーリーといえば、実に単純明快な勧善懲悪で、決して期待を裏切らない。
今は、様々な情報が飛び交う難しい時代、色々と考えさせられる毎日だが、単純な自分にとって何とも心地よい時間に浸れる。そして、画面いっぱいに「終」の文字が大写しされると、思わず、パチパチパチと手を叩いてしまうのである。
小学生の頃、学校から帰って来ると、玄関にランドセルを放り出し、そのまま近所の公園に直行。
そこには、学年バラバラな子ども達が10人~20人、常に一つの遊びに興じていた。ある時は缶蹴りだったり、ドロジュン(という名前の遊びが流行っていた)だったり。様々な境遇の子ども達がいたが、みんな仲良くまとまっていて、たまにある諍いも、親の介入もなく、上級生がうまく仕切ってくれていた。そして遊びながら年上への尊敬や憧れ、年下への面倒を見ることなどを自然に学んだ。
机の前で勉強をした記憶は全くないが、私の人生観や知恵の原点はここにあるような気がする。
コロナに翻弄され、様々な対応に追われた3年が過ぎ、ようやく落ち着きを取り戻しつつある今日この頃。
昨年の事だが、久し振りに遊びに来た息子一家との夕食時、幼稚園に通う孫娘に、「最近、幼稚園は楽しいかい?」と聞くと、「じーじ、食べてる時にお話しちゃ、いけないんだよ!」との返事にあ然。
「そうか、そうか。」と言いながら、4歳の孫は、物心ついた時から、コロナと共に大きくなったようなものなんだな…と実感。まだまだ、後遺症に悩む人も多いコロナだが、何とかこのまま収束に向かってほしいものだ。
最近、妙に涙もろくなってきた。特に人の話やスピーチを聞いて、感激(感動)すると涙があふれて止まらなくなり、恥ずかしい思いをすることがある。
年齢のせいなのだろうか?それとも、子どもの頃から親父に「男は何があっても泣くな!」と鉄拳制裁で教えられ、親元を離れるまで泣くことができなかった反動もあるかもしれない。私自身、もともと誰よりも情動的な性格であり、本当に辛く、屈折していた時期もあった。
昨今、無表情の人が多いように感じる。ただ、怒りはともかく、笑ったり泣いたりすることこそが人生ではないかとも思う。
年末年始の休みに、久しぶりにゆっくりテレビを見ていて、ふと昔を思い出した。子どもの頃、どの家庭にもテレビは一台しかなく、家族全員で一つの番組を見ていた。我が家でも、チャンネルの選択権は頑固親父が握っていて、幼い私たち兄弟は、「これが見たい!」と言える状況ではなかった。あの頃はビデオもなく、YouTube(動画共有サービス)なんてとんでもない。テレビ番組は「その時」に見なければ、永遠に見ることはできなかったのだ。見たい番組を見せてもらえず、幼心に我慢することを刻まれたような気がする。
そして今、あらゆる手段で好きな時に好きな番組を見られる時代になり、テレビ離れが進んでいるというのも皮肉なものだ。
令和元年も残り少なくなったが、ことしは災害の多い年になってしまった。中でも9月の台風15号に続く数々の災害は、多くの被災者が今もなお苦しんでいる報道を見る度、心が痛む。15号で甚大な被害を受けた千葉県は、東京湾を挟んで隣の県でもあるため、直後にパッカー車を出動させて災害ごみの収集に向かわせた。ボランティア活動をする人たちには、東京湾フェリーの運賃を免除するなどの支援をした。困っているときはお互いさま、相手との協定や要請の有無など関係なく「向こう3軒両隣」の精神で動くことは当然であると思う。
令和の始まりに予測できないことが起きた。改めて前例に捉われない決断や行動が必要と考えている。
市長の大切な仕事の一つに、米海軍司令官や姉妹都市などの日本人以外の方々とのお付き合いがある。ここで問題なのが言葉の壁。相手の話していることは大体分かるが、答えの言葉が英語ですぐに出てこない。通訳を介しての会話は、靴の底から足の裏を掻(か)いているようなもどかしさがある。その度に「もっと語学の練習をしよう!」と思うのだが、忙しさにかまけて思うように続かず、若い頃の不勉強を今更後悔しても始まらない。8月の米国視察時は、毎日が英語漬けだったのでさすがに落ち込んだが、女房に「いいじゃない!日本語は特級なんだから。」と慰められ、さらにへこむのだった。
私が幼い頃、「体育の日」という国民の祝日はなかった。昭和39年の東京オリンピック開催後、開会式が行われた10月10日に制定されたと記憶している。あの開会式は土曜日だったのだろうか?小学校5年生だった私は、昼頃「早く家に帰って開会式を見よう!」と家路を急ぐ時、何気なく見上げた雲一つない見事な青空!あの時のワクワク感と何とも言えない高揚感。今でも昨日のことのように思い出す。
いよいよ来年、「東京2020大会」を迎えるが、子どもたちにとって、50年以上経っても記憶に残る大会になることを切に願う。
もうすぐ敬老の日を迎えるが、私には「あんなおじいさんになりたいなぁ」と思う老人がいた。それは妻の父だった。義父は60歳の時に53歳の妻(義母)を癌(がん)で亡くし、以後1人暮らしだったが、亡くなるまでの9年間は私たち一家と同居していた。孫たちが顔を合わせる度に「おじいちゃん、調子どう?」と聞くと、返事は決まって「絶好調!」。時には気分が優れない日や体調の悪い日もあったと思うが、愚痴や弱音は聞いたことがない。そして、誰に何をしてもらっても「ありがとう」と必ず言う。義父が亡くなった時、お世話になったヘルパーさんが「あんなにありがとうと言う人は、見たことがない。」と涙したが、本当に自然に「ありがとう」という言葉をよく口にした人だった。10年以上前に亡くなったが、今でも時々、思い出す。
先日、久しぶりに夫婦でベイスターズ戦を観戦してきた。
思えば、夫婦でハマスタに行くのは長男の高校時代最後の夏の大会準決勝(涙のサヨナラ負け)以来だった。
球場に着くと、内野席最前列で青空のもと、最高の野球観戦!のはずだった。ところがしばらくすると、友人や知人からのメールなどがピコピコ鳴り始め、「テレビに映ってるよ!」と。妻と顔を見合わせ、「はぁ?」。
慌ててテレビカメラを探すと、反対側ベンチの横にあるカメラが左打者の顔をアップ撮りしていて、スタンド最前列の私たちも映ってしまっていたのだ。それ以後、右打者のときはリラックス、左打者になるとテレビ映りを気にして背筋を伸ばして応援するという、何とも落ち着かない観戦となったが、確かベイスターズが勝ったと思う。
昨今、高齢ドライバーによる交通事故が多発し、大きな社会問題となっている。実は、私の父も85歳を過ぎるまで運転しており、危険極まりない状態だった。ウィンカーを出せば、他の車が譲るのは当たり前のような危険運転で、車体も傷だらけなのに、自分は運転が上手いと自負していた。今に大変な事故につながるのではないか?と家族は常にハラハラしていたが、周囲の説得に耳を貸すような性格ではない頑固親父だったため、皆で一計を案じた。孫(私の次男)が車を借り、そのまま廃車。親父には、事故を起こして廃車にしたと説明。烈火の如く怒った親父だったが、新車を買う事もなく、渋々運転免許証を返納したのだった。
各家庭で事情があるのだろうが、この問題の解決に向けた対策が急がれる。
最近よく聞く「イクメン」という言葉に違和感があるのは、私だけだろうか?
子どもが生まれれば、夫婦二人(両親)で育児をすることは、ごく自然で当たり前のことなのに、あえて男親の育児参加を言葉にする必要があるのだろうか?私自身を振り返ると、共稼ぎの生活だったため、当然のようにオムツ替えや保育園の送迎をした。毎朝、着替えや食事をさせて保育園へ連れて行くことは、大変だったが嫌々やった記憶がない。むしろ、日々の成長を肌で感じることができ、その頃、何をしても上手くいかなかった自分には、ある種の救いだったのかもしれない。
今、そうやって育てた息子たちに子どもができ、進んで育児をしている彼らの姿を見ると、ほほ笑ましくもあり、うらやましさすら感じるのである。
「白波は、白波は~」で始まる市歌を、私は小学生の頃から歌っていたような気がしていたが、1967年制定とのこと。私は、既に中学生になっていた。人間の記憶というのは曖昧なものだ。その時代の子どもたちは、慣れ親しんだ市歌だが、その後、歌う機会が少なくなり、市民と疎遠になってしまったようだ。市職員の中にも、「知らない」という者がいると聞き、がくぜんとした。市民としてのアイデンティティーは、まず市歌より・・と思い、昨年より、いろいろな機会を通じて届けることとした。平成時代に疎遠になってしまったが、堀口先生により描かれた、自然、歴史、そして壮大なロマンを、團先生によるはつらつとしたスケールの大きい響きに乗せた詩情溢れるこの市歌を、令和時代には、市民の皆さんに、是非親しんで頂きたい。
年明けに、念願の「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行けた。赤裸々とも言えるストーリー展開と、何よりその音楽性に自称「ロッカー」の私は、魂を揺さぶられた。
思えば、学生時代から大の映画ファンで、多い時は月に20本以上見て来た私だが、市長に就任以来、映画館に一度も行けていなかった。市議時代は、議会の合間に、ふらっと映画館に行っていた事が、今では懐かしい。その「ふらっと」行っていた映画館も店舗改修工事で、今春よりしばらくの閉館を余儀なくされるという。つまり、三浦半島から映画館が全く消えてしまう訳だ。映画は時代を映す鏡であり、時に未来への予言や警告も意図するノンフィクションであると思っている。
家族皆で、映画を身近に楽しめるような街にしたいものだ。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」
日本初の災害文学と評価を受ける、方丈記の始まりだ。
この世の無常観を美しい文体で語っている古典の名著で、夏目漱石や、アニメの巨匠・宮崎駿監督にも大きな影響を与えたと言われているが、若い頃は何て虚しい救いのない本と敬遠していた。この正月に久しぶりに読み返してみると、齢を重ねた今、「これは災害や挫折など様々な苦難の連続である人生への応援歌だ。」と新たな感慨を持つに至った。
鴨長明の時代とは違い、「災害は忘れない頃にまたやってくる」時代になってしまった。平穏は祈るしかないのだが、行政の長として人事を尽くす決意をあらためて固めた。
「がらがら~」「きたきた、またおっかない親父が…」「ばしっ、ばしっ」「いてえ」「貴様、しっかり授業聞け」
小学校時代、親父は週2・3回、授業中、勝手に参観、態度の悪い同級生の頭を片っ端から殴っていた。先生も怖くて何も言えず「お、お世話様です。」
この親父が登場するたび、教室の隅で、小さくなっている私だった。
93歳まで生きたこの独善頑固親父とは最後まで折り合いがつかなかったが、少々やりすぎとは言え、今思えば、地域で子どもを育てる原型だったのかもしれない。
この恐るべき親父は、どうも我が息子たちの時代にも同じようなことをやっていたらしい。逝ってなお恐ろしい親父である。
お役所仕事というと、一般的には不親切で非能率的な仕事の代名詞として、決して褒められた言葉ではなく、私自身も大嫌いな言葉だった。しかし、今、そのお役所仕事をする横須賀市の長となり、1年が経つ。「良いお役所仕事」とは、どのようなものか?そしてそれを体現してもらうには、職員にどのように働きかけたらよいのか?とりあえず、口を酸っぱくして言っているのは、日々の仕事を遂行する上で「出来ない理由を言う前に出来る理由を考えろ」。
民間企業では当たり前のことだと思うが、少しずつ意識改革を推し進め、「横須賀市役所は、お役所仕事っぽくないね!」と、市民の皆さんに感じて頂ける日が来ることを期待したい。
今から40年以上前、早稲田大学の卒業式での村井総長の言葉、「早稲田人たる者、富貴や栄達を求める事なかれ。地域に帰って「草」となり社会の為に励め。」この言葉に感銘を受け涙。
勉学はほとんどせず、「新自由クラブ」という保守新党の理念に共鳴し、選挙運動に明け暮れていた私には、この言葉が福音となり、田川誠一先生の門を叩き、弟子として薫陶を受けることとなる。
秘書1日目、「君、人間は肩書きや職業ではない。田川の秘書という肩書きではなく、上地君ならば、と誰もが信頼を寄せる人間になりたまえ。」という清貧で実直な言葉に強く傾倒。
今でも「草」としての使命を日々感じている。
お問い合わせ
市長室秘書課
横須賀市小川町11番地 本館1号館3階 <郵便物:「〒238-8550 秘書課」で届きます>
電話番号:046-822-8118
ファクス:046-827-8878
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