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更新日:2016年12月7日

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横須賀History~人物紹介

江戸~明治期編

香山栄左衛門(かやまえいざえもん)ペリー来航時に浦賀奉行を演じた男

浦賀奉行所の与力だった香山栄左衛門は、嘉永6年(1853)、ペリー率いる4隻の黒船が浦賀に来航したとき、中心となって交渉にあたった人物の一人です。幕府の責任者との交渉を望むアメリカ側に対し、香山は自らを「浦賀奉行である」と偽って交渉にあたります。そして、後に幕府がアメリカ大統領の親書受け取りを決めると、その準備のために奔走します。
アメリカ側から信頼された香山は、無事に親書受理が終わると、二人の通詞とともに懇親会に招かれ、黒船の中で歓待を受けます。さらに艦隊が帰国する際には個人的な贈り物をやり取りするほど親交を深めましたが、こうしたことが周りの反感を買ってしまったのでしょうか。ペリー来航が一段落すると江戸城の宝蔵番に転勤となりました。西浦賀の叶神社内に、香山を顕彰する「昭洞香山君碑」が建っています。

紳士的な態度に好感
香山は自らを浦賀奉行と偽って交渉に臨みましたが、その態度はアメリカ側から非常に信頼されました。この来航に同行したウィリアムズの著書「ペリー日本遠征随行記」には、「彼の態度は全般的にみて、非常に礼儀正しかった」と好意的に記されています。
(参考:「続・横須賀人物往来香山栄左衛門」山本詔一著など)

ゆかりの地
1.浦賀奉行所跡バス停「浦賀病院」から徒歩8分
2.昭洞香山君碑バス停「紺屋町」から徒歩1分西叶神社内

 

 中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)さまざまな技術に精通した気骨の人

浦賀奉行組与力、中島三郎助は、ペリー来航の際、応接掛与力として、通詞の堀達之助とともに最初に黒船に乗り込み、交渉にあたりました。中島は船内の様子や搭載している大砲について詳細に調査して回り、アメリカ側から「がんこで気むずかしい役人であり、何でものぞきまわり、目についたことを根堀り葉堀り調べる好感のもてない男」と、香山栄左衛門の態度と引き比べて酷評されてしまいます。しかし、こうした好奇心と、中島の持つ技術力が、後に日本最初の洋式軍艦「鳳凰丸」建造に生かされました。
大砲を打つ技術から火薬の調合、造船術などさまざまな知識と技術を持っていた中島でしたが、戊辰戦争では最後まで新政府に対抗し、函館で二人の息子とともに壮絶な戦死を遂げました。

~風流人としての一面~
戊辰戦争で見せた激しい一面の一方で、漢詩、和歌、俳諧などにも通じ、「木鶏」の名で幕末の浦賀俳壇の中心的な存在の一人として活躍しました。西浦賀の「大衆帰本塚の碑」(三郎助筆)を見ると、どちらかというと女性的で、やさしい筆跡であることがわかります。
(参考:「続・横須賀人物往来中島三郎助」山本詔一著など)

3.大衆帰本塚の碑京急浦賀駅から徒歩5分浦賀警察署手前
4.中島三郎助招魂碑バス停「紺屋町」から徒歩10分愛宕山公園内


 

 佐々倉桐太郎(ささくらとうたろう)我が国海軍兵学の草分け

天保元年(1830)、江戸の結城家で生まれた桐太郎は、浦賀奉行組与力、佐々倉家の養子となり、ペリー来航時には応接掛として活躍し、有能ぶりを発揮します。
安政2年(1855)、海軍伝習生として長崎に行き、主に士官心得などについて学んだ佐々倉は、万延元年(1860)、咸臨丸に運用方兼鉄砲方として乗り組み、アメリカへの航海をなしとげました。
その後、軍艦操練所教授方頭取などを歴任し、明治維新後は海軍兵学寮に出仕するなどし、勝海舟らとともに日本海軍の創設に尽力しました。

勝海舟との賭けに勝利
咸臨丸がサンフランシスコに入港するとき、佐々倉は国際礼法どおり21発の礼砲を打とうとしますが、勝海舟に力量を危ぶまれ、「もしもきちんと打てたら俺の首をやろう」と揶揄されます。奮起した佐々倉は、砂時計で時間を計りながら見事に礼法を打ち納めました。佐々倉桐太郎の技術と気骨がうかがえます。
(参考:「続・横須賀人物往来佐々倉桐太郎」上杉孝良著など)

ゆかりの地
5.咸臨丸出港の碑バス停「紺屋町」から徒歩10分愛宕山公園内

 

 濱口英幹(はまぐちひでもと)軍艦一筋、晩年は花屋敷主人

濱口英幹は八丈島の出身で、浦賀奉行所同心濱口家の養子となり、浦賀奉行所に勤務していました。ペリー来航後の安政2年(1855)、長崎海軍伝習所で修業し、江戸築地の軍艦教授所教授方出役として航海技術を教えます。
彼の卓越した技術は万延元年(1860)咸臨丸のアメリカへの航海で発揮され、運用方士官として無事その任務を果たします。咸臨丸に同乗していたアメリカ人ブルック大尉は、彼を「極めて冷静で落ち着きあり。話し相手にはとてもよい男で、常に感謝して教えを受けている」と評しています。明治維新後は横須賀製鉄所で造船技師として勤務しました。

晩年は花屋敷主人
濱口は後に市内の中里町(現在の上町)に居を構えました。浦賀奉行所の与力、同心の中には俳諧を嗜む人が多かったようですが、彼もまた俳号「雪蕉」と名乗り、俳諧を愛し、東京で宗匠になるよう周囲から勧められるほどの腕前だったそうです。彼が住んだ屋敷は、江戸時代の主要交通道であった「うらが道」の道沿いにあり、一年を通して花や緑が豊かだったため、「花屋敷」と呼ばれていました。また、花屋敷にうぐいすが憩っていたことから、屋敷前の坂道は「うぐいす坂」といわれ、近隣から親しまれたそうです。
(参考:「横須賀人物往来濱口英幹」辻井善弥著)

ゆかりの地
6.うらが道・うぐいす坂案内板横須賀中央駅から徒歩10分

 

 岡田井蔵(おかだせいぞう)咸臨丸の偉業に参加した士官

岡田井蔵は、天保8年(1837)幕臣の家に生まれ、天保14年、浦賀奉行組与力となった兄とともに江戸から浦賀に移ります。16歳で昌平黌(幕府学問所)に入り漢学を学んだ井蔵は、第2回海軍伝習生として長崎で主に機関学を学びました。そして、万延元年(1860)、幕府遣米使節の随行艦咸臨丸に機関方の士官として乗り組み、太平洋横断を体験します。
帰国後、軍艦操練所に勤務、また朝陽丸の機関長として伊豆、小笠原諸島の調査、開拓などに従事しました。
明治維新後、その技術を横須賀製鉄所で生かし、製図部門の責任者として軍艦「盤城」「海門」の建造などに貢献しました。東浦賀の顕正寺に墓所があります。
(参考:「続・横須賀人物往来岡田井蔵」上杉孝良著など)

7.岡田井蔵の墓バス停「新町」から徒歩3分顕正寺内

 

 山本金次郎(やまもときんじろう)日本の蒸気機関の大家

山本金次郎は文政9年(1826)の生まれで、ペリー来航当時は浦賀奉行所の同心を務めていました。安政2年(1855)、長崎に海軍伝習所が開設されると、佐々倉桐太郎、中島三郎助らとともに第1回伝習生として派遣され、主に蒸気機関を研究します。そして長崎から江戸への帰路、早速幕府軍艦観光丸の蒸気方を担当しました。
その後、江戸の軍艦教授所で教授方を務めていましたが、咸臨丸のアメリカ派遣が決定すると、機関長次席格として参加します。
帰朝後も軍艦操練所教授方として後進の指導に当たりました。数学の天才ともいわれ、おおいに将来を期待されましたが、病のため元治元年(1864)惜しくも亡くなりました。彼が残したとされる船体図や機関図などの資料は、残念ながら現存していませんが、きわめて貴重なものであったとされており、山本は我が国蒸気機関の大家といわれています。

~子孫がさまざまな分野で活躍~
金次郎の長男、宣喚は教育者として活躍し、次男安次郎は父の志をついで機関に携わり、日露戦争時の連合艦隊機関長、海軍機関学校校長等を歴任しました。さらに音楽プロデューサー、テレビキャスター等で名高い山本コータロー(厚太郎)氏は金次郎の曾孫にあたるそうです。
(参考:「続・横須賀人物往来山本金次郎」上杉孝良著など)

◆浦賀文化センター
浦賀文化センターでは、浦賀奉行所をはじめとする浦賀地域の歴史に関する展示を見ることができます。
8.浦賀文化センターバス停「ドック前」から徒歩1分

 

 

 小川茂周(おがわしげちか)幕末~明治の横須賀のリーダー

小川茂周は天保6年(1835)に大津村の農家に生まれました。13歳で大津村の名主見習いとして公職についたのをきっかけとして大津村の名主等を歴任、明治維新以降も戸長などを務め、明治11年(1878)初代の三浦郡長となり、特に教育問題に熱心に取り組みました。またこのころ、横浜、東京への旅客の玄関口を確保するため、白浜を埋め立てて港をつくることを主唱します。その地域は、後に埋め立ての主唱者であった小川の名を取り「小川町」と名付けられ、今も町名が残っています。

小川茂周のペリー談
ペリー来航当時18歳だった小川はその事実に強い衝撃を受けたようで、後に小川が当時の様子を語ったとされる記録が残っています。黒船船内の蝋燭の白さに驚いて1本もらって帰ったが、友人に少しずつ切り分けてあげたら、最後に3センチくらいしか残らなかったこと、船内の「姿見鏡」を見て、自分に似た人が近づいてくると勘違いをしたことなどが、面白く語られています。
(参考:「続・横須賀人物往来小川茂周」山本詔一著など)

ゆかりの地
9.小川茂周表功章徳記念碑バス停「衣笠山公園」から徒歩10分衣笠山公園内

 

 

 金子堅太郎(かねこけんたろう)近代日本の政治家明治憲法を起草

 

金子堅太郎は、明治憲法の起草者の一人として知られています。明治20年(1887)、伊藤博文は憲法草案作成のため、夏島の別荘で金子堅太郎らと憲法起草の相談をしました。議会政治に詳しい彼の意見は、憲法起草に大きな役割を果たしたと思われます。また、米友協会の役員も務めていた金子は、募金を集め、明治34年(1901)ペリー上陸記念碑を建立しました(現ペリー公園)。その3年後、日露戦争の開戦直前に、当時枢密院議長であった伊藤博文からアメリカ行きを要請された金子は、困難と言われたアメリカの対日世論喚起のために尽力し、戦争終結を有利に導く手助けをしました。

横須賀線の車内トイレ設置を進言
晩年、横須賀線を使うことが多かった金子は、車内にトイレがないため難儀したことがあり、鉄道省に電話を入れ、横須賀線の車内トイレの設置を提案、実現させたとされています。
(参考:「横須賀人物往来金子堅太郎」辻井善弥著など)

ゆかりの地
10.明治憲法起草地記念碑バス停「夏島」から徒歩5分

 

 

 中牟田倉之助(なかむたくらのすけ)初代横須賀鎮守府長官


明治17年(1884)海軍の拠点である東海鎮守府が横浜から横須賀に移され、横須賀鎮守府と改称されます。中牟田倉之助はその初代長官兼海軍機関学校校長として赴任しました。かつて横須賀造船所長として勤務したことのある彼にとって、横須賀は2度目の赴任でした。彼の横須賀における最大の功績は東海道本線の横須賀支線設置を建議したことで、この提唱がもとになって明治22年(1889)、横須賀線が開通します。このほかにも横須賀港、長浦港間の新井掘割水路の開設、横須賀港内の官舎、施設整備など、長官として多くの業績を残しました。

厳格で面倒見の良い人柄
東郷平八郎は中牟田の人柄を「堅実周密」と評しましたが、自分に厳しく几帳面な中牟田は海軍の中にあってもことのほか厳格だったといわれる一方で、面倒見がよく、包容力を持ち合わせており、多くの書生の面倒を見るなどして部下からは慕われていたそうです。中牟田は横須賀を離れた後も、横須賀で火災があった際には見舞金を送っており、また後年、横須賀駅等を利用する乗客が多くなったのを見てとても喜んでいたそうです。
(参考:「続・横須賀人物往来中牟田倉之助」今原邦彦著など)

ゆかりの地
11.旧横須賀鎮守府庁舎(現米海軍横須賀基地内※現存する建物は震災後に再建)

 

 

 東郷平八郎(とうごうへいはちろう)日本海海戦勝利の立役者


弘化4年(1847)、鹿児島で生まれた東郷平八郎は、イギリスに留学して7年間海軍を学び、海軍士官としての道を歩みます。明治36年(1903)、日本の連合艦隊司令長官となり、日露戦争で日本海海戦などを戦いました。このとき東郷が座乗した戦艦「三笠」は、記念艦として三笠公園内に保存されており、その横には東郷平八郎の銅像が建っています。

~小柄で物静かな人物~
日露戦争の海戦において名将といわれた東郷平八郎ですが、その体格は小柄で、物静かな人物であったそうです。
(参考:「続・横須賀人物往来東郷平八郎」出口義昭著など)

ゆかりの地
12.三笠公園・記念艦「三笠」
バス停「大滝町」から徒歩7分

・三笠公園(施設情報)
・記念艦「三笠」ホームページ(外部サイト)

 


 瀬戸口藤吉(せとぐちとうきち)軍艦行進曲の作曲者

明治15年(1882)、瀬戸口藤吉は東京にあった海軍軍楽隊に志願入隊し、和声楽やピアノを学びます。明治23年(1890)に海軍軍楽隊が横須賀に移ってからはずっと横須賀に住み、横須賀海兵団の軍楽隊に在籍時、有名な「軍艦行進曲」を作曲しました。明治36年(1903)には海軍軍楽隊長となり、第一艦隊の楽長として三笠に乗り組みました。その後も国内外で演奏活動、作曲活動を行い、日本の海軍軍楽隊の父と言われました。彼の作った「軍艦行進曲」の記念碑が、三笠公園内に建っています。

山田耕作にも影響
瀬戸口の先輩であり、彼に軍艦マーチの作曲を示唆したといわれるのが、国家「君が代」制定に尽力した初代海軍軍楽長、中村祐庸です。中村も長らく横須賀に住み、瀬戸口と同じくこの地で亡くなりました。中村と瀬戸口の二人は、幼少を横須賀で過ごしたことのある山田耕作にも大きな影響を与えたといわれています。瀬戸口が軍楽隊生活を終えて退官する際、海軍軍楽隊の父といわれた瀬戸口を見送るため、山田耕作が作曲した「瀬戸口楽長に送る」という記念曲が演奏されました。
(参考:「続・横須賀人物往来瀬戸口藤吉・中村祐庸」上杉孝良著など)

ゆかりの地
13.軍艦行進曲の碑バス停「大滝町」から徒歩7分三笠公園内

 

こんな人物も・・・編

江戸時代、干鰯問屋を中心として栄えた東浦賀の町には、多くの人々がさまざまな業種で活躍し、中には名物といわれる人物が存在しました。ここでは、文政12年(1829)に東浦賀の干鰯問屋の樋口有柳という人が記した『近世浦賀畸人伝』に記された人物から、その波乱に満ちた人生を紹介します。

 

 柴崎簾風(しばざきれんぷう)逆境から復活、膏薬で家を再興

柴崎簾風は、享保5年(1720)ごろの人と思われます。浦賀で商売を成功させて栄華を誇っていましたが、その後没落してしまい、浦賀を離れて江戸に流浪しました。ここで病気になった彼は、どうせ死ぬなら好きなものを思い切り飲み食いしてやろうと、河豚汁を飽きるほど飲み、鰻を食べ、さらに居酒屋でサメの刺身を食べ、大酒を飲むなど暴飲暴食、前後不覚で自宅にもどります。しかしこのような無茶が逆に功を奏したのか、なぜか病気は完治してしまいました。
ここから大逆転の人生がはじまります。浦賀で試みに家伝の膏薬を売り出したところ、効き目の良さが評判となり、彼がいつも頭巾を被っていたことから「頭巾膏薬」と言われる大ヒット商品となり、その評判は浦賀に入る廻船を通して全国に広がり、商売は大繁盛となります。その後も柴崎の家は隆盛を続け、大正4年(1915)発行の「浦賀案内記」にも膏薬の宣伝が掲載されています。
(参考:「横須賀人物往来柴崎簾風」山本詔一著など)

 

 深本(しんぽん)ドラマチックな生涯を送った僧


江戸時代、港町として栄えた浦賀には、通称「洗濯屋」といわれる遊郭が数件あり、その中の一軒を営んでいたのが江戸屋半五郎でした。しかし、浦賀奉行に就任した初鹿野伝右衛門がこの「洗濯屋」と称する華麗な建物を見て、「洗濯屋がこのように贅沢である必要はない」と、取り壊しを命じます。半五郎は豪雄な性格で知られていましたが、この事態にショックを受けたのでしょう。江戸へ向かった半五郎は、一人の僧侶に出会い、これまでの人生を考え直し、すべての財産や家を処分して遊女たちに与え、自分は京都黒谷の青龍寺で得度し仏門に入ります。
さらにその後、紀州の山中で、後に「生き仏さま」として江戸に一大センセーションを巻き起こした徳本上人と出会い、師弟関係を結んだ彼は、自らを「深本」と名乗り、現在の浦賀警察署の辺りにあった地蔵堂で念仏三昧の日々を送ります。彼が61年の生涯を終えるまで、念仏の声が途絶えることはなかったそうです。彼の転身後の熱心な活動の名残を示す六字念仏の石柱が、東浦賀の東林寺に残されています。
(参考:「横須賀人物往来深本」山本詔一著など)

ゆかりの地
14.六字念仏塔東浦賀東林寺内

 

横須賀の再建に貢献した人物編

 ベントン・W・デッカー(B.W.DECKER)
米海軍横須賀基地司令官(在任期間昭和21年(1946年)4月10日-昭和25年(1950年)6月30日)


デッカー司令官(写真提供:米海軍横須賀基地司令部)

横須賀市深田台の中央公園内にデッカー司令官の胸像があります。
昭和24年(1949年)11月に横須賀商工会議所が、横須賀の再建に尽力されている同司令官を称え、後世に伝えるために彫刻家川村吾蔵氏に製作を依頼し建立したものです。
当初は、横須賀市役所前の公園に建立されておりましたが、市役所前公園に地下駐車場施設を建設するにあたり平成7年(1995年)10月に現在の地に移設されました。
胸像の下にある「頌徳」の銘板は、昭和24年の除幕式の案内状に記されたとされる文を、平成7年の移設時に新たに設置したものです。

「頌徳
ベントン・W・デッカー司令官は、横須賀米国海軍基地司令官として、大戦後混沌たる昭和二十一年四月着任せられ、爾来四ヶ年に亘り本市経済の復興に絶大な同情と好意とを以て吾々市民を指導された偉大なる恩人である。軍港を失った本市を民主的な経済都市として更生させるために新しい商工会議所、婦人会、赤十字会、福祉委員会等の設立を促され、更に本市の文化、教育、救済等凡ゆる社会的事業にも適格な指導精神を指示せられ、殊に新規転換工業の育成に対しては最大の援助を与へられ、本市諸産業が今日の復興を見るに至ったことは偏えに同司令官の有難き徳政の賜であって吾々は哀心深い感銘と敬意とを表するものである。
玆に同司令官の頌徳を永く偲びつつ今後不断の努力を続けるため玆に巨匠川村吾蔵氏畢生の力作になる記念胸像を建立した次第である。
昭和二十四年十一月

社団法人横須賀商工会議所」
(原文は旧字体の縦書き)

【出典:横須賀商工会議所所蔵アルバム】

中央公園(施設情報)

 

お問い合わせ

文化スポーツ観光部文化振興課

横須賀市小川町11番地 本館3号館4階<郵便物:「〒238-8550 文化振興課」で届きます>

電話番号:046-822-8116

ファクス:046-824-3277

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