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更新日:2023年3月17日

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三浦安針墓の石碑について

安鍼塚碑 (横書きに直しています)

正二位大勲位侯爵井上馨篆額
塚者葬維廉亞達母斯氏處氏世稱安針英國堅特州紀林翰人慶長三年駕
蘭舩航東洋遭颶風漂蕩五年達豐後海岸時徳川家康在大阪召見移之江
戸賜邸今日本橋區安針街是也家康擢氏為譯官或顧問試命造洋形船成
稱意又為砲術地理數學等師範或從事外商貿易頗有功績因賜相模三浦
郡逸見村二百五十石之地為食邑元和六年四月十四日病歿氏臨終遺嘱
曰吾漂來此國暖飽至今皆徳川将軍之恩也宜葬吾於逸見山巓令東面其
墓可以望江戸泉下有靈永保護此都佛諡曰壽量滿院現瑞居士妻馬籠氏
生二子皆夭寛永十一年七月十六日妻亦歿合葬于此佛諡曰海華王院妙
滿比丘宅阯猶在村中香火院曰浄土寺傳遺物二種云明治三十八年神奈
川縣知事周布君公平歎其墳墓之頽廢於寒煙荒草中與英國公使麻克竇
納爾海軍大将井上男及英商惹斯倭爾太謀募金修繕之有栖川威仁親王
英國亜札爾康納特親王竝賜保護令旨我搢紳富豪及英國人爭喜捨獲貮
萬圓許乃用其半修墳墓擴兆域植花木置守戸名曰塚山貯其半充永久保
存之費因又建碑不朽其人属余作銘銘曰
 嗟安針氏    海外漂寓     有効國家     報以恩遇
 義不忠恩    生死仰慕     永護江都     東面其墓
    従三位勲二等文學博士三島毅撰
        従六位勲五等髙島張輔書

                          井龜泉刻字

銘文

現代語訳

塚に葬られているのは、イギリスのケント州ジリンガム出身で安針の名で知られるウィリアム・アダムスである。慶長三年(一五九八年)にオランダ船に乗り、東洋への航海中台風に遭い、五年間の漂流の後、豊後(現在の大分県)の海岸に達した。この時、大阪にいた徳川家康に召し出され、江戸に屋敷を与えられた。日本橋区(現在の東京都中央区)按針町がこれである。家康は通訳あるいは顧問として按針を採りたてた。西洋式の船の造船を命じ、安針はその意をかなえた。また、砲術、地理、数学等の師範、或いは外国との貿易に大変な功績があったので、相模(現在の神奈川県)の逸見に二百五十石の領地を与えられた。元和六年(一六二〇年)四月十四日に病没した。その際、「私はこの国に流れ着き今や大変に恵まれた生活をしている。これはみな徳川将軍の恩である。私を逸見山の嶺の東向きにした墓に葬ってほしい。そうして死後も江戸を望みこの都を永久に保護するものである」との遺言があった。戒名は寿量満院現瑞居士。妻の馬籠氏と妻の馬籠氏との間の二人の子供は夭逝し、寛永十一年(一六三四年)七月十六日妻もまた病没し、ここに合葬した。戒名は海華王院妙満比丘。屋敷は現在も逸見にある安針の菩提寺である浄土寺で、所縁の品が伝わる。明治三十八年、墓が訪れる人もなく荒廃していることを歎いた神奈川県知事の周布公平(すふ こうへい)が整備をした。イギリス公使マクドナルド、海軍大将井上(良馨)男爵、イギリス人商人ジェームス・ウォルタらの募金により修繕をした。有栖川威仁親王、イギリスのアーサー・コンノート親王の保護令旨により紳士、富豪やイギリス人らから二万円の寄付が集まり、これをもとに墓の拡張や修繕、花や木の植栽、墓守を置くなどの整備が行われ、塚山と名付けられた。また、これらの事業を後世に伝えるためこの石碑を建立した。

※注:碑文を現代語に訳したものであり、必ずしも歴史的事実を表したものではありません。石碑左奥の三浦安針墓は埋葬墓ではなく供養塔と考えられ、アダムズの遺言により江戸を眺望するこの地に建てられたと伝わります。

 

写真「大正七年五月三十日按針塚建碑竣工除幕式」

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『安針塚修理及保存ノ概要』より

横須賀市立中央図書館郷土資料室提供

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教育委員会事務局教育総務部生涯学習課 担当:文化財係

横須賀市小川町11番地 本館1号館6階<郵便物:「〒238-8550 生涯学習課」で届きます>

電話番号:046-822-8484

ファクス:046-822-6849

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