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更新日:2019年1月22日

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8.怒田城址

 

怒田城址

(怒田城址)

怒田城の全体が分かる昔の写真

(怒田城の全体が分かる昔の写真)

怒田城復元想定図

(怒田城復元想定図)

吉井貝塚のある山は、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した三浦一族の水軍の基地である、怒田城(沼田城)の跡です。
船を置いた一帯が、現在、「舟倉」という地名となって残っています。

-三浦氏と怒田城-

満昌寺のある大矢部付近を本拠地としたと考えられている三浦氏は、律令の時代に入り天皇を中心とした新たな国家体制の一端を担いながらも、半島の中ではその地歩を着実に固めていった。
治承4年(1180)8月26日、三浦一族は源頼朝に加勢し、平家方と合戦をするために衣笠城に立てこもっていた。しかし、源平盛衰記によると、当初、和田義盛は吉井城山に比定されている怒田城で敵を迎え撃つことを主張したと書かれている。それは、城の周りが岩山で、一方のみが海に向いた要害堅固な地であるという理由からであった。
現在、吉井城山を訪れても、当時の面影はないが、よく見ると種々の城郭施設が見受けられる。その先端部が切り崩され、失われてしまった今、怒田城の様相を知るには赤星忠直氏の業績によるところが大きい。
左図は、氏のご教示と先端部の切崩以前の写真から復元想定した見取り図だが、北方の丘陵から土橋によって結ばれ、その先端部に向けて平場と切岸とが連なる連郭式の山城であったことが分かる。
また、縦堀などの遺構は認められず、怒田城が城郭としては古い様相を示し、後の時代に城としては利用されていないことも推察される。
(横須賀市博物館教育シリーズ22:「吉井城山」(1975年発行)より)

 

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