更新日:2017年2月27日
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19世紀に入るころになると、たびたび日本近海で異国船を目にするようになり、江戸湾の警備が必要になりました。
文化7年(1810)幕府は、会津藩に江戸湾警備の任務を命じました。命を受けた会津藩は鴨居と三崎の地に陣屋を構え、三浦半島のほぼ全域を会津藩領としました。任務につくと観音崎と浦賀の燈明堂近くの平根山へ三浦半島で最初の台場を造り、守りを固めました。この任務が永遠に続くものと思っていた会津藩士は一家をあげて横須賀に移住してきたので、鴨居には藩士の教育機関である藩校の養正館も設けられました。ちなみに江戸湾警備についた他の藩はすべて単身赴任でした。
このような状況のもと、横須賀で生涯を閉じた会津藩士およびその家族も多く、現在確認できる墓石だけでも70基以上にのぼります。
会津藩は文政3年(1820)にその任務を解かれますが、ペリーが来航した嘉永6年(1853)には房総半島で再び任務に就き、ペリーが久里浜へ上陸した時には海上警備をしていました。
明治維新で会津藩が新政府軍に破れると、会津を離れ、因縁深い横須賀へ新天地を求めて来た人も多く、その子孫の方が現在も住まれています。
西暦 | 和暦 | 主なできごと |
1189 | 文治5 | 佐原義連、奥州合戦の戦功により源頼朝から会津4群を与えられたという。 |
1379 | 天授5 | 芦名直盛、東黒川館を築く。(のちの黒川城→若松城) |
16世紀 | 芦名盛氏、東北地方有数の戦国大名として活躍。 | |
1589 | 天正17 | 芦名義広、摺上原(すぎあげはら)の戦いで伊達政宗に破れ、芦名氏が滅びる。 |
1810 | 文化7 | 会津藩は幕府に浦賀周辺の警備を命ぜられ、相模国に領地を与えられる。(三浦、鎌倉、久良岐3郡内3万石) |
陣屋詰家臣の教育のために鴨居村に「養正館」を建造(翌年開講) | ||
1811 | 文化8 | 会津藩、鴨居と三崎に陣屋を設け、平根山・城ケ島に台場を建設。 |
1812 | 文化9 | 会津藩、観音崎に台場を建設。 |
1820 | 文政3 | 会津藩、相模警衛を免ぜられ、浦賀奉行内藤正弘に引き継ぐ。 |
1821 | 文政4 | 幕府、会津藩の相模領地の警衛地起立につき藩士を褒賞。 |
勘定奉行遠山景晋ら、相模会津藩領と台場を受け取り、これを川越藩に渡す。 | ||
1984 | 昭和59 |
横須賀市、円照寺から会津藩士の墓地(腰越)を購入し、市の文化財に指定する。 |
2011 | 平成23 | 横須賀市、円照寺所在の会津藩士と家族の墓碑6基を、市の文化財に指定する。 |
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