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更新日:2018年6月1日

ページID:3885

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建保元年~元弘三年(1213~1333)

年号

西暦

記事

建保元年

1213

3・1

和田義盛、比叡山延暦寺の八部院を造営する。

 

 

5・2

和田義盛挙兵、北条義時を攻めるが、翌日討たれ滅亡(和田合戦)。

建保三年

1215

3・5

将軍実朝、三浦横須賀に観桜のため来遊(「横須賀」の初見)

承久元年

1219

1・27

将軍実朝、右大臣拝賀のため鶴岡社参。別当公暁、実朝を殺害。

 

 

11・13

三浦義村、駿河守に補任される。

承久三年

1221

5・15

北条義時追討の宣旨、諸国に下る。三浦義村の弟胤義、京方の大将として、京都守護伊賀氏を討つ。

 

 

6・5

幕府軍入京。三浦胤義父子、三戸友澄主従戦死。

元仁元年

1224

10・-

佐原家連の懇請により、京都泉湧寺俊?、梵宇落慶の導師として三浦に下向。

嘉禄元年

1225

12・21

北条泰時、評定衆を設置。評議始めに三浦義村ら参会。

安貞元年

1227

6・14

和田朝盛、京都で生け捕られる。

安貞二年

1228

7・23

将軍頼経、三浦義村の田村別亭に御渡、三浦一族供奉する。

寛喜元年

1229

2・20

三浦義村、迎講施行のため三浦三崎に竹御所、泰時室を招く。
翌日、三崎海上に迎講を行う。

 

 

4・17

将軍頼経、三崎に遊覧す。

寛喜二年

1230

3・19

将軍頼経、三崎に観桜す。

貞永元年

1232

7・10

三浦義村、御成敗式目制定の際、評定衆として起請文に署名する。

暦仁元年

1238

4・2

三浦泰村、評定衆となる。

延応元年

1239

12・5

三浦義村死去。年齢不詳。

寛元四年

1246

7・11

前将軍頼経、鎌倉追放。供奉人中に三浦光村・資村・佐原胤家あり。

宝治元年

1247

6・5

安達・北条勢、三浦邸を襲撃。三浦一族五百余人、法華堂で自害、三浦氏滅亡(宝治合戦)。佐原盛連の子息兄弟、北条方に属する。

弘安八年

1285

11・17

安達泰盛ら誅殺される。三浦対馬前司頼連、葦名四郎左衛門尉ら安達氏に与同して殺される(霜月騒動)。

元応元年

1319

5・-

夢想疎石、横須賀に泊船庵を結んで隠棲。

元弘元年

1331

9・20

三浦介時継、笠置山攻略のため鎌倉を出立。三浦若狭判官時明ら、これに従う(元弘の乱)。

元弘三年

1333

5・22

鎌倉幕府滅亡。

お問い合わせ

文化スポーツ観光部文化振興課

横須賀市小川町11番地 本館3号館4階<郵便物:「〒238-8550 文化振興課」で届きます>

電話番号:046-822-8116

ファクス:046-824-3277

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