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更新日:2018年6月1日

ページID:3886

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建武二年~永正十三年(1335~1516)

年号

西暦

記事

建武二年

1335

7・23

三浦介時継、鎌倉に迫る北条時行に従う。軍中に三浦若狭判官時明あり(中先代の乱)。

 

 

8・2

三浦高継・同下野入道ら、東下する足利尊氏に従う。

 

 

8・17

足利尊氏、箱根山に北条時行を破る。北条方に三浦若狭判官時明および三浦高通、大多和入道あり。

 

 

8・-

三浦時継、尾張熱田で捕われ、京都六条河原に誅せられる。

 

 

9・27

三浦高継、勲功の賞として相模大介職および父時継の遺領等を継ぐ。

観応二年

1351

10・7

相模守護三浦介高通、鎌倉法華堂領の三浦大多和村への濫妨狼藉を禁ず。

永和二年

1376

10・28

相模守護三浦介高連をして、鎌倉円覚寺造営の要脚(費用)として、箱根別当闕所地をあてる。

明徳元年

1390

8・6

相模守護三浦介高連、走湯山領中村郷内年貢の請文に、「大介高連」と署名する。

応永十四年

1407

3・15

相模守護三浦高明、走湯山密巌院領小田原並びに関所の事について実否の糺明を関東公方より命ぜられる。

応永二三年

1416

10・3

相模守護三浦介高明、上杉禅秀の乱で手勢五百騎および相模の人びとを率いて、化粧坂に向う。

永享六年

1434

6・5

沙弥聖喜(葦名盛政カ)、不知行地の三浦郡葦名郷・山口郷等を子息盛久に譲る。

永享十年

1438

8・29

将軍義教、上杉氏に公方持氏追討の命を下し、その旨を三浦介時高に触れる(永享の乱)。

 

 

10・17

三浦介時高、足利持氏に叛き、鎌倉を攻める(永享の乱)。

康正二年

1456

1・19

三浦介時高、中郡岡崎を収め、近郷を押領する。

寛正三年

1462

3・-

三浦介時高、隠遁を表明。同二十九日将軍義政は御内書を発して、これを抑止する。

長享二年

1488

9・-

三浦高救(道含)・義同(道寸)父子、武蔵須賀谷に在陣。義同、同地に滞在の万里集九に絵画の賛を依願。

明応三年

1494

9・23

三浦義同、義父時高を三浦新井城に滅すとの所伝あり(事実無根との異説あり)。

永正九年

1512

8・13

伊勢宗瑞(以下北条早雲)・氏綱父子に攻められ、岡崎城落城。三浦介義同、住吉城に退く。

 

 

-

北条早雲、三浦氏の押えとして玉縄城を築く。

永正十年

1513

1・-

三浦介義同、鎌倉辺から相模野にかけて北条勢を攻めて敗退する。

 

 

7・-

三浦道香主従討死して、住吉城落城す。

 

 

9・29

三浦介義同の女婿太田資康、江戸から出撃、三浦で北条軍と戦い討死、三浦金谷の大明寺に葬るという(事実誤認との異説あり)。

永正十三年

1516

7・-

扇谷上杉朝興、新井城救援のため江戸より出撃、玉縄城辺で敗退。

 

1516

7・11

新井城落城。三浦義同・義意父子討死。義同の一子時綱、安房に遁れるという。

お問い合わせ

文化スポーツ観光部文化振興課

横須賀市小川町11番地 本館3号館4階<郵便物:「〒238-8550 文化振興課」で届きます>

電話番号:046-822-8116

ファクス:046-824-3277

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