更新日:2026年5月1日
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咸臨丸フェスティバル式典は、1860年に我が国の軍艦として初の太平洋横断に成功した咸臨丸とその乗組員の偉業をたたえる式典です。
令和8年度は、4月25日(土曜日)に浦賀コミュニティ広場にて開催しました。
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| 花輪供呈 | 横須賀市長 |
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駐日オランダ王国大使代理 |
駐日米国大使代理 |
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| 海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏 | レセプションの様子 |
咸臨丸(原名「ヤパン」Japan)は1860年に日本の軍艦として初の太平洋横断という快挙を成し遂げました。
1857年にオランダのキンデルダイクにあるフォップスミット造船所で建造されたスクリュー式蒸気帆船の咸臨丸は、1853年に浦賀に来航した米国のペリー提督の蒸気軍艦を目の当たりにした徳川幕府が、近代的な軍艦の必要性を痛感して、オランダに発注したものです。
完成後、オランダを出発した咸臨丸は長崎に入港し、日本側に引き渡されました。その後、長崎に開設された海軍伝習所の練習艦として活躍します。
1858年に日米修好通商条約が結ばれ、幕府は、批准書交換のため、米国に使節団を派遣することを決めました。1860年、咸臨丸は、新見正興、村垣範正、小栗忠順ら使節団が乗る米国軍艦ポーハタン号の随伴艦として、木村喜毅、勝義邦(海舟)のほか、浦賀奉行所与力の佐々倉桐太郎や濱口興右衛門、米国海軍のジョン・ブルック大尉らが乗り組み、浦賀港を出航しました。
過酷な航海を経て、ポーハタン号より先にサンフランシスコに入港した咸臨丸は、ポーハタン号とともに現地の人々の大歓迎を受け、帰路はハワイを経由し浦賀に戻りました。
1861年には、ロシア軍艦が対馬の一部を占領したポサドニック号事件の対応にあたる小栗忠順を乗せ対馬に派遣されたり、小笠原諸島の探索に用いられたりしました。1868年の戊辰戦争を経て、その後も輸送船として開拓使の物資や北海道への移住者を運ぶなど、活躍を見せました。
1871年、泉沢村(現在の北海道木古内町泉沢)のサラキ岬沖で座礁し、沈没しました。
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