更新日:2024年8月6日
ページID:3566
ここから本文です。
1853年、ペリー提督が浦賀に来航、久里浜に上陸し、日本に開国をもたらした史実を顕彰する式典です。
令和6年度は、7月13日(土曜日)にペリー公園にて開催しました。
海上自衛隊横須賀音楽隊と
米海軍第7艦隊音楽隊の演奏
和太鼓 鼓ノ羽の演奏
国歌独唱
花輪の供呈
横須賀市長
駐日米国大使代理
デヴェン・リチャードソン様
外務大臣代理
播本 幸子様
海上自衛隊横須賀音楽隊の演奏
米海軍第7艦隊音楽隊の演奏
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカ東インド艦隊マシュー・カルブレイス・ペリー提督は、フィルモア大統領から対日交渉の全権を与えられ、旗艦サスケハナ号とミシシッピー号の2隻の蒸気船、サラトガ号とプリマス号の2隻の帆船を率いて浦賀沖に来航しました。
ペリー提督は終始、携えてきた大統領の親書を、直接、日本最高の役人に手渡すことを主張しました。幕府は、初めて目にする蒸気船の威容に驚き、ペリー提督の強い態度に屈して、ついに7月14日、久里浜海岸に仮設の応接所を設け、親書の受け取りに応じました。ペリー提督一行は、アメリカ大統領の親書を幕府側に渡し、日米の友好と通商を求め、アメリカの船舶が寄港できる港の指定を要求しました。
はじめはかたくなに鎖国政策を押し通そうとした幕府も、欧米の最新の文化を目のあたりにし、時代の潮流には抗しきれず、遂に長い間の鎖国政策を転換して、翌1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、再び来航したペリー提督と横浜において「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、下田、函館の2港を開港しました。
日本は「開国」により世界に向けて自由貿易の第一歩を踏み出し、国防力を高めるため、横須賀製鉄所の建設を開始しました。その後の日本は、明治維新を経て急速な近代化を成し遂げてゆきます。
関連ホームページ
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください