更新日:2022年10月25日
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横須賀市は、明治40(1907)年2月15日に市制が施行され、誕生しました。
平成29(2017)年に市制施行110周年を迎えました。
市制施行110周年を迎えることを記念して、市制施行110周年記念式典を開催しました。
日時:平成29年2月12日(日曜日)午前10時開式
場所:よこすか芸術劇場
式典では、市政の発展にご尽力頂いた方々の市民表彰を行いました。
市民表彰受彰者の皆さまは、こちらからご覧いただけます。
また、祝賀アトラクションとして古くから横須賀の様々な地域に伝わってきた民俗芸能が披露されました。
披露された民俗芸能は、国・県・市の無形民俗文化に指定・選択されている次の4つです。
~浦賀奉行所開所とともに伊豆から伝わった虎の舞~
獅子舞のように虎の頭をかぶった虎が暴れるように踊る踊りです。西浦賀にある為朝神社で行われる「虎踊り」は、虎の舞だけでなく、歌舞伎や唐人踊りも取り入れられています。
享保5年(1720年)に奉行所が伊豆下田から浦賀に移転した折に、一緒に伝えられたと言われており、虎は親子二体で、親虎には成人、子虎には青少年が二人ずつ入り、笛や太鼓に合わせて動きます。踊りは近松門左衛門の「国姓爺合戦」を題材に、唐子の踊り、虎の出現、暴れる虎の退治の場面から成ります。
野比に伝わる由来は不明ですが、浦賀の虎踊と同様、近松門左衛門の「国姓爺合戦」の虎狩りを題材にし、二人一組になって虎の中に入り、お囃子に合わせて芸をします。虎を退治する和唐内の登場、唐人踊り、虎の出現、虎退治の場面で幕となる流れは浦賀の虎踊とよく似ていますが、野比では虎を演じる人と芸を変えて数回繰り返されます。
戦前と戦後にしばらく中断していましたが、昭和47年に再復活し、現在は隔年で白髭神社下広場に舞台を設けて催されています。
~飴売りのしぐさを取り入れた郷土芸能~
長井町の新宿地区に江戸時代末期ごろ安房上総より伝えられたという踊りです。この踊りは、粉屋踊り、万作踊りとも呼ばれ、かつては関東一円にあったといわれ、頭に丸い板台を乗せ、太鼓を叩きながら面白おかしく飴を売っていた飴売りのしぐさを、地域の人が自分たちの踊りに採り入れたものといわれています。
踊りは、若衆によって演じられるのが一般的で、地域の祭礼や祝い事のたびに幾晩にもわたって演じられていましたが、戦後一時期途絶え、昭和48年(1973年)頃から小中学生の女子が踊り手になり復活しました。お年寄りのはやしに合わせ、手に傘を持ったあねさんかぶりの少女たちが演じる素朴な民俗芸能です。
~佐島の漁村で歌い継がれてきた船歌~
御船歌は御座船歌とも呼ばれ、江戸時代の将軍や大名が御座船に乗るときや新造船の進水式などに船手によってうたわれた歌です。江戸時代の後期になると、漁村の船祭りに御座船を模した御船が登場し、御船歌もうたわれるようになりました。佐島で代々船大工を営んできた家には、漁船を飾り板などで装飾した船祭りのための御座船を描いた絵図が残されています。そのうちの一枚には安政5年(1858年)銘があり、このころにはすでに佐島の船祭りが行われ、御船歌もうたわれていたと思われます。
佐島の御船歌は48曲あるとされていますが、その中でも役歌と呼ばれる重要な歌があります。「初春」「みだくどき」「たまほこ」「いせのながと」「まつぞろい」などで、祭礼のときや正月の初参り、春と秋のお神楽など季節の節目や祝い事の宴会などでうたい継がれています。
横須賀市は、明治39(1906)年12月15日に横須賀町と豊島町が合併し、翌40(1907)年2月15日市制が施行され、誕生しました。
県下では横浜市に次いで2番目、全国では59番目の市です。
地域は次の21町でした。
逸見町 |
湊町 |
汐入町 |
汐留町 |
谷町 |
元町 |
諏訪町 |
面積12.93平方キロメートル、人口62,876人、戸数11,433戸、1戸あたりの人口は5.5人でした。
初代市長には前横須賀町長の鈴木忠兵衛、助役に栗田万五郎、収入役に長島幾蔵、市会議長に石渡担豊が就任しました。
市庁舎は当初、諏訪町(現在の緑が丘・聖ヨゼフ病院の地)にあった旧町役場を仮庁舎として使用し、半年後の8月14日に新庁舎が隣接地に完成しました。
当初の職員数は38人で、年末には63人となっています。
初めての市会議員選挙は明治40(1907)年4月に行われました。
議員定数は36人、有権者数は1,349人で、人口100人に対して有権者数は2.1人の割合でした。
長い歴史の間に横須賀の町並みも変化していきました。その一方で今もなお、当時の面影を残しているところもあります。
市制施行当時の市役所は、現在の緑が丘の諏訪大神社の前にありました。関東大震災で倒壊した後は、各地に移転しましたが、昭和3年3月に現在地に起工され、3階建ての堂々たる庁舎が完成して、同年11月に開庁式が行なわれました。以後昭和60年に現在の新庁舎が建設されるまで50数年間市民に親しまれました。
平坂上から湘南電鉄(現在の京浜急行)が、黄金町(横浜)~浦賀間に開通して間もない昭和8年ごろの風景、電車は1~2輌編成の初期のものの様であります。ガードは今もそのまま同じ場所に残っています。
昭和5年3月、日露戦争25周年記念の年に当たり、大滝町通りを東郷元師の名に因んで東郷通りと命名(現在の三笠通り)。昭和34年11月には三笠ビル商店街が新築完成しました。
昭和30年ごろの中央駅前で、ロータリーを分けて右が米が浜、右手前が平坂、正面左へ若松、大滝、小川町の商店街である。正面の商店は大型の商業施設に変わっています。長い間見慣れ、親しまれてきたロータリーも交通量の変化に従って消えて行き、平成10年には、Yデッキが完成しています。
近代日本のルーツとなった横須賀製鉄所(造船所)から始まった横須賀の街の発展を紹介するパネル展「よみがえる あの時の横須賀~日本遺産認定のまち~」を、さいか屋横須賀店で開催いたします。
戦前の市内の様子や、当時の湘南電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)の関連資料等をパネル展示し、あわせて平成28年4月25日に認定された日本遺産「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」のストーリーや構成文化財を紹介します。
どこか懐かしい「あの時」の横須賀を、振り返ることができる展示会です。
市制施行110周年記念コーナー(横須賀市が誕生した当時の様子など)もあります。チラシ(PDF:570KB)
<横須賀汐留町の景(関東大震災前)>
<横須賀中央大通り付近(1910年代前半)>
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