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更新日:2018年8月28日
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嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリーが来航したとき、ペリー艦隊が停泊していると、浦賀奉行所の船がやってきて、巻き物状の横断幕を広げます。そこには「艦隊は直ちに出航すべし、危険を冒して停泊すべからず」のメッセージが、なぜかフランス語で書かれていました。ペリーもびっくりしたのでは?
(写真:江戸期の灯台「燈明堂」(復元)と浦賀沖の風景)
ペリーが来航した浦賀沖:地図1
幕末、江戸幕府は江戸近郊に本格的な造船所をつくるため、フランスに協力を求めます。そして協議の結果、建造地として横須賀が選ばれます。理由はさまざまですが、一説にはフランスのツーロンという軍港の地形が横須賀湾に似ていたから、ともいわれています。フランソワ・レオンス・ヴェルニーをはじめとするフランス人技師の指導により、慶応元(1865)年から建造がはじまった「横須賀製鉄所」は、当時の造船技術の粋を集めた、日本最大の造船施設として生まれました。
横須賀製鉄所があった場所(現在の米海軍横須賀基地周辺):地図2
横須賀製鉄所は最新の造船施設として話題を呼び、なんと東京見物や伊勢参りなどと並んで、全国から1日数百人もの人が訪れるほどの観光名所となりました。今でいえばディズニーランドやお台場のような人気でしょうか。人気のおみやげは、製鉄所の内部を紹介したイラストマップ「横須賀明細一覧図」。おしゃれなデザインです。
横須賀製鉄所をヴァーチャル体験!横須賀製鉄所の立体映像
横須賀市自然・人文博物館では、横須賀製鉄所の建造物を立体映像でリアルに再現した、新しい”製鉄所散歩”の映像を見ることができます。自分で行き先を決めることができ、まるで製鉄所の中を歩いているようです。
絵地図に描かれている横須賀製鉄所の現在の位置(米海軍横須賀基地内):地図3
フランスからやってきた技師ヴェルニーの指揮のもと、横須賀製鉄所で日本初となる石造りのドライドック(艦船の建造や修理のための施設)が建造され、数多くの船を建造、修理してきました。なんと140年近くがたった現在でも、在日米海軍横須賀基地内で稼動している働きものです。
日本初の石造りのドライドック(第1号ドック):地図4
横須賀製鉄所の建造とあわせて、蒸気の力を利用して船の素材となる鉄を鍛えて強くしたり、加工したりする機械であるスチームハンマー(オランダから輸入したもの)を製鉄所に設置しました。この2基のスチームハンマーは、太平洋戦争の後まで現役として稼動し、現在はヴェルニー公園内にあるヴェルニー記念館で展示されています。
スチームハンマーが展示されているヴェルニー記念館:地図5
横須賀製鉄所の時計台の写真を拡大して良く見ると、上に避雷針が伸びています。日本では最も古い時期につくられたと思われるこの避雷針、製鉄所の施設を悪天候から守ったことでしょう。
避雷針がついていた時計台があったとされる場所(現在のショッパーズプラザ横須賀付近)
:地図6
明治時代、横須賀製鉄所内で多くの水が必要となり、走水の水源地から水を引くため、走水から製鉄所までのおよそ7キロメートルを結ぶ水道管を敷設し、わずか10m弱しかない高低差を利用して通水しました。その後、この水道の一部を使って市民への給水がはじまりました。これが平成20年12月25日に100周年を迎えた「横須賀市営水道」のはじまり。走水水源地では、走水の湧水“ヴェルニーの水”が味わえます。
(写真:当時の水道管)
走水水源地:地図7
水道の話では、高低差10メートルという話題に触れましたが、このメートル法は、実はフランスで制定されたもの。日本ですっかりおなじみの「メートル」が日本ではじめて使われたのが、横須賀や横浜で行われた製鉄所建設のための測量や機械設計だったのです。
(写真:メートル法による機械の設計図)
横須賀製鉄所で会計課長として経理を担当したフランス人エミール・ド・モンゴルフィエは、日本にはじめてフランス式の近代経理簿記を伝え、実際の仕事に役立てました。
製鉄所の建造に伴い、幕臣の子弟のための教育機関が出来ました。その後、明治3(1870)年、製鉄所で働く技術者たちにフランスのさまざまな分野の技術を教える「黌舎(こうしゃ)」という技術学校になります。この学校で学んだ日本人の中から、後に語学、造船、工学、外交、貿易などさまざまな分野で著名な専門家となる多くの人材が育っていきました。
黌舎があったとされる場所:地図10
江戸時代の日本人の勤務時間の感覚といえば、「日の出から日没まで」。横須賀製鉄所が出来たとき、そんな日本人の職人に時間を知らせるため、製綱所(巨大な綱をつくる建物)の上に大きな時計台をつくりました。時計台ができて、はじめて「遅刻」をした人の名は・・・わかっていません。ちなみに、ただいま人気の「YOKOSUKA軍港めぐり」船着場のデザインは、この時計台です。
(写真:横須賀明細一覧図の表紙絵)
時計台があったとされる場所(現在のショッパーズプラザ横須賀付近):地図6
ヴェルニーとともに日本に来ていたフランス海軍の一等軍医、医学博士サヴァチェは、日本の植物についても詳しく研究し、フランスに帰ってからその成果を「日本植物目録」などの著書で発表し、植物学という点から日本を世界に発信しました。サヴァチェと言えば、有名な「ナウマンゾウ」の化石を日本ではじめて発見したのもサヴァチェです。このナウマンゾウの化石は、横須賀市自然・人文博物館に展示されています。
(写真:ナウマンゾウの展示)
自然・人文博物館:地図12
日本が開港をするためには、外国の船が安全に江戸湾を出入りするための灯台が必要でした。そこでフランス人の技師と、日本人大工の力によって、明治2(1869)年、日本でどこよりも早く、観音崎の地にれんが造の洋式灯台が建造され、新しい西洋の光が海を照らしました。現在は3代目の「観音埼灯台」が、数多くの船が行き交う浦賀水道の安全を守っています。
観音埼灯台:地図13
フランスから来た技術の一つに、れんがを使った建築の技術がありました。その積み方はさまざまで、積み方によって「フランス積み」「イギリス積み」などともいわれています。このうち、洒落たデザインでフランス本国の建築物にも見られる「フランス積み(正しくはフランドル積み)」は、猿島公園に残る砲台跡などでいまでも見ることができます。
猿島:地図14
横須賀製鉄所が横須賀造船所と名前を改めた明治4年、造船所を視察するため、明治天皇がはじめて横須賀を訪問されました。その折、乗艦した軍艦「龍驤(りゅうじょう)」で、明治天皇がはじめて西洋の料理を召し上がったそうです。メニューはどんなものだったのでしょうか。本町にはこのとき明治天皇が滞在された明治天皇横須賀行在所址の碑があります。
「明治天皇横須賀行在所址」の碑:地図15