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更新日:2017年2月27日

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浦賀の歩み

原始時代から明治時代までの浦賀の歴史

原始時代

豊かな自然と温暖な気候に恵まれた浦賀には、約9,000年以前から人々の生活が営まれていたことが、数多くの遺跡によって知ることができます。
中でも、県の史跡指定を受けている吉井貝塚は、縄文時代の早期から古墳時代まで、約7,000年間にわたる遺物が採集された、県内でも有数の遺跡です。
また、大正期の発掘で2体の人骨が出土した高坂貝塚、縄文時代早期の土器や、多くの礫器が採集された平根山遺跡、完全な調査が行われれば大きな遺産となるであろう小原台遺跡、現在は残っていませんが、弥生時代の貴重な遺跡である鳥ヶ崎横穴群、さらには近年の発掘調査で全貌が明らかになった上の台遺跡からは、弥生時代から古墳時代後期までの、100を超える住居跡が発掘されました。
これらは、鴨居八幡神社境内の遺跡などと合わせ考えてみると、たいへん興味深いものがあります。
吉井から池田町にかけての大塚山山頂には、かつて、三浦半島最大の古墳(前方後円墳)があり、発掘調査の結果、人骨こそ発見されませんでしたが、須恵器、ガラス玉、直刀などが見つかっています。
これらのことから、浦賀をとりまく山々が、原始時代の人々の生活の場であったことが想像でき、古墳時代には、相当な数の人々が生活をしており、その人々を統率する権力者がいたことを知ることができます。

古代

8世紀の初めごろになると、小さな集落がいくつか集まった郷と呼ばれる地方行政区画ができます。
奈良・正倉院にある『封戸租交易帳』には、御浦郡走水郷の戸数と田畑の耕作面積が記載されています。
走水郷が、現在の走水を指すのかはっきりしませんが、ともかく、この地域が古代統一国家に組み入れられていたことがわかり、都(奈良)へ租税を運ぶため、また、中央の役人の往来などのために、交通路が開かれていたこともわかります。
そして、この交通路は、古東海道と呼ばれ、『古事記』や『日本書紀』に出てくるヤマトタケルノミコト(倭建命・日本武尊)の東征の路とほぼ一致しています。
また同じ頃、衣笠に国分寺と同じ規模をもつ宗元寺(現在の県立横須賀高校所在地)が建立されていることなどから、古代における浦賀のもつ意義は大きなものであったと思われます。
平安時代につくられた『和名類聚抄』という我が国初めての百科事典には、三浦半島に五つの郷があったことが記されています。御浦(田浦周辺)・田津(田戸周辺)・氷蛭(三浦海岸周辺)・御崎(三崎周辺)・安慰(武山・大楠周辺)となっていますが、浦賀はどうも田津郷に入るようです。また、なぜ走水郷が姿を消しているのか疑問の点もいくつかあります。
この平安時代の終わりの頃に起きた前九年の役で功績があった村岡為通が、その恩賞として三浦半島を領地として授かり、衣笠に城を構え、三浦氏を名のり、三浦半島に武士の時代の幕があきました。

中世

為通から数えて4代・義明は三浦半島を近親者で固め、三浦にその人ありといわれるほど強い勢力をもっていました。
浦賀にかかわるところでは、吉井貝塚のところにあった怒田城(または沼田城)を弟の義実が守っていました。
怒田城は、三浦一族の水軍の基地としての役割をもっており、舟の置いてあった辺りを、現在でも「舟倉」と呼んでいます。
また、観音崎には、義明の四男・義春が陣を張っており、その館は、現在の観音崎自然博物館の前の辺りであったといわれています。
この館の近くには、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を勧請した鴨居八幡神社が鎮座していました。
三浦一族は、伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒に立ったときから源氏に加担しています。
そして、もう一人、京都神護寺の僧・文覚上人も西叶神社の裏山で、源氏の勝利を祈願して、石清水八幡を勧請し、この祈願がかなえられたことから、ここに「叶明神」の称号をおくり、叶神社が創建されました。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いてからの浦賀周辺は、金沢や榎戸と並び、浦川(現在の久比里の一画)が重要な湊としての役割をもっていました。
この後、鎌倉時代の終わりごろから室町時代にかけての浦賀を知る資料は現在ありませんが、室町時代になると、現在あるお寺の大多数が開基していることなどから、人々の生活があったことだけは確認できます。
そして戦国時代になると、小田原の北条氏が東叶神社の裏山に、房総の里見氏に対する砦・浦賀城を築き、三崎とともに水軍の基地としました。

近世

徳川家康が江戸に居城を移すと、三浦半島は直轄地となり、代官・長谷川七左衛門が愛宕山の下に陣屋を構え、三浦半島一円を支配しました。
家康は、いち早く浦賀の湊に目をつけ、ここに外国の商館をつくり、貿易港として利用しようと考えていました。
この時の外交顧問役が三浦按針(ウイリアム・アダムス)でした。
また、按針が乗っていた「リーフデ号」の修理は、北条氏の支配下時代から培われていた浦賀の船大工の手で行われました。
寛永年間(1624~1643)になると、三崎と走水に関所が設けられ、三崎が上り船(関西方面行)、走水が下り船(江戸行)の検査を行いました。奉行は最初、向井将監忠勝が兼任しており、奉行所は御所ヶ崎にあったと思われ、現在の走水小学校の辺りが「同心町」であったといわれています。

 

-干鰯問屋の最盛期-
同じ頃、関西(特に紀州)から鰯を求めて、たくさんの漁船がやってくるようになりました。
これは、近畿地方を中心に綿作が発達し、最適な肥料が干鰯であったので、それを求めてのものでした。
そして、この近海で水揚げされた鰯を干鰯に加工し、関西方面に送り出す干鰯問屋が東浦賀に建ちはじめました。最初15戸あった問屋は最盛期には倍に増え、一時期には全国の干鰯商いを独占するほどまでになっていました。
こうして、干鰯問屋が大きくなれば、当然船の出入りも多くなり、これらの船の安全を図るため、幕府は湊の入口に燈明堂を建設しました。初めは、燈明堂の経費は幕府の負担でしたが、元禄時代からは、東浦賀の干鰯問屋が肩がわりし、明治維新までその灯をともし続けました。

 

-浦賀奉行所の設置-
江戸の町の発展に伴い、全国から江戸へ向けて物資が船によって運ばれるようになると、三崎・走水両奉行所を統合してつくった下田奉行所では対応できなくなり、享保5年(1720)12月、浦賀に奉行所を設置し、「船番所」を置いて、江戸へ出入りする船をすべてここで検査する体制を整えました。
この船改めを直接担当したのは、回船問屋と呼ばれる下田問屋、東・西浦賀問屋の三方問屋で、約100軒ありました。
下田問屋の人々は、下田奉行所当時からこの仕事に携わっており、奉行所移転に伴って浦賀へきました。
現在、県の民俗文化財に指定されている「虎踊り」は、この下田問屋の人々が浦賀にもってきたものだといわれています。
浦賀に奉行所が設置されることにつき、干鰯問屋の生活権がおびやかされるということで、町(特に東浦賀)をあげての設置反対の運動があつたことは忘れられないことです。
江戸時代も半ばをすぎる頃から、浦賀沖へしばしば外国船が姿を見せるようになり、鎖国政策をとっている我が国にとって、外国船から江戸を守るため、浦賀奉行所に「海防」という大きな役割が加わりました。
文化年間(1804~1818)には幕府の命令により、会津藩によって初めて台場(砲台)が築かれ、以後、川越・彦根・熊本・長州と、三浦半島は目まぐるしく各藩が警備にあたりました。
中でも、台場をつくることにもっとも苦労のあった会津藩にゆかりのある人々の墓が、鴨居を中心に数多く残っています。

 

-浦賀文化の繁栄-
文化・文政(1804~1830)の頃になると、浦賀は最盛期をむかえ、江戸や大阪などから、文人墨客が頻繁に訪れるようになり、それに呼応するかのように俳諧・漢詩などを学ぶ人々が増え、これ以後幕末まで、浦賀文化の花が咲く時代になります。
この中で代表的な人物は、浦賀奉行所与力の中島三郎助といえます。
彼は幕吏としても、ペリー来航の際、最初に黒船に乗り、折衝にあたるなどの敏腕をみせました。
そして、町の人々にも俳諧を通じてとけこみ、「大衆帰本塚」の碑文を書くなどして、町の人々から敬慕されていました。
その一つのあらわれが、明治に建てられた愛宕山の中島三郎助招魂碑です。
江戸時代も、その幕を閉じようとしている慶応3年(1867)、西叶神社前の湖幡屋の砂糖樽から御札が発見されたことに端を発し、約2か月にわたって浦賀の町を狂乱状態にした「ええじゃないか」は、江戸幕府の町として発展してきた浦賀の町の人々の不安を投影したようでした。

 

ええじゃないか

幕末に各地で発生したもので、神社仏閣の御札が降る(家で見つかる)と、吉兆として祝酒や赤飯などを奉公人や往来の人にまで振る舞った。老若男女の区別なく「ええじゃないか」と囃立てて町をねり歩き、富家に土足で踊りこんで酒食などの振る舞いを強要した。
封建制などに不満をもつ世直し運動の意味もあったのだろうが単なる事象として消えた。

明治時代

明治維新をむかえた慶応4年(1868)閏4月をもって、浦賀奉行所の関係施設は新政府の手に移され、奉行所の建物は取り壊されましたが、船改め業務は明治5年(1872)まで続きました。
新政府は現在の浦賀行政センターのところに浦賀役所を設け、主に佐賀藩の武士が勤務しました。
明治2年からは西洋日曜日と呼ばれた休日が施行され、同じ2年に点灯した観音埼灯台など、西洋文明がいち早く取り入れられました。
明治3年には東西に別れていた浦賀村が合村して浦賀村となり、明治9年には浦賀町、22年には市町村制の施行に伴って、大津・走水・鴨居を併せた新しい浦賀町が誕生し、初代町長に三次六兵衛が選出されました。
明治4年になると郵便業務が開始されました。
また、東浦賀の乗誓寺および西浦賀の叶神社に郷学校が設立されて、町としての教育施設が完備し、6年には鴨居学舎も開校しました。7年には西岸学舎内に神奈川県の教員養成所(翌年師範学校となる)が設置され、西岸学舎は県内で最も設備・環境の良い学校となりました。
その後、児童数の増加に伴い、明治31年に東岸・西岸学舎は合併し、現在の浦賀小学校となります。
明治6年には干鰯市場や幕府軍艦の石炭置き場であった築地町(現在の住重浦賀工場内)に水兵練習所(後に屯営と改称)が置かれ、明治22年からは陸軍の要塞砲兵練習所に引き継がれていきました。
明治11年には渡船が町営となり、翌年には東京との間に蒸気船の定期航路が開かれ、22年に横須賀線(軌道)が開通すると道路網が完備され、30年には横須賀との間に乗合馬車の運行も始まりました。
また、明治初期の人力車の保有台数が群を抜いて多いことなどからみると、三浦半島ではまだまだ中心的な町であったことを物語っています。
明治24年に愛宕山に中島三郎助の招魂碑が建てられ、公園となり、開園に集まった人々からの声で浦賀ドックの設立が決まり、浦賀は造船の町としての歩みを始めます。
しかし、江戸時代以来の浦賀の町の様相を大きく変えたのは、日露戦争時の塩の専売制でした。
浦賀を代表する商品は、東の干鰯、西の塩であり、特にペリー来航の前後から塩の商人として成長してきて、明治期には浦賀の商人の代名詞であった大黒屋の倒産は、町への影響も相当に大きなものでした。
これ以後、浦賀は商業中心の町から工業の町へと変わっていきます。

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