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更新日:2025年1月6日
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干鰯(ほしか)問屋について少し説明します。江戸時代の初期、関西方面、特に紀州から鰯を求めてたくさんの漁船が関東に来るようになりました。これは、近畿地方を中心に綿作が発達し、その最適な肥料が干鰯であったので、それを求めるためのことでした。そして、水揚げされた鰯を油抜きをして干し、干鰯肥料として関西方面に送り出す干鰯問屋が東浦賀に建ちはじめました。
初期に15戸あった干鰯問屋は、最盛期には倍に増え、一時期には全国の干鰯商いを独占するほどまでになっていました。こうして、干鰯問屋が拡大されれば、当然に船の出入りも多くなり、これらの船の安全を図るため、幕府は浦賀湊の入口に燈明堂を建設しました。
燈明堂の経費は、初めは幕府が負担しましたが、元禄時代からは、東浦賀の干鰯問屋が全額負担し、明治維新までその灯をともし続けました。
江戸時代も中期になると、江戸の商人が干鰯の商いをするようになり、東浦賀の干鰯問屋は次第に勢力を失う結果となりました。
この時代の東浦賀の推移については、幕府が下田から浦賀に奉行所を移転するにあたり、当初、東浦賀への設置を計画していたものの、干鰯問屋の利権が侵害されるということで、東浦賀の干鰯問屋を中心とした猛反対にあい、その結果、西浦賀に奉行所が設置されたことも、経済の中心が東から西に移行していった原因であったといえましょう。
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