閉じる

更新日:2017年8月30日

ページID:2961

ここから本文です。

1.大衆帰本塚

(大衆帰本塚)

浦賀警察署に向かって右側の歩道に面して、安山岩の中でも板状節理が発達した箱根産の根府川石に、「大衆帰本塚」と篆書体で刻まれた石碑が建っています。
この大衆帰本塚は、元治元年(1864)浦賀奉行所の大工棟梁・川島平吉の発案により、奉行の大久保土佐守が賛同し、篆額は大畑春国が記しました。
碑文は、浦賀奉行所与力・中島三郎助の筆致をそのまま刻んだものです。
「此和多理能むかしのさまをおもう尓」で始まる流麗な筆致の平安疑古文は、この土地が開発される以前の様子を記し、ここで命を落とした先人たちの思いを忘れぬようにとの思いを伝えるものです。
また、浦賀警察署の場所には、もと、地蔵堂があり、ここの堂守をしながらその生涯を閉じたのが、「近世浦賀畸人伝」にも記載のある、遊廓の主人から僧侶になった江戸屋半五郎(僧・深本)です。
次は大衆帰本塚碑文の読解文です。
この辺りの昔の様を想うに、沢の辺の田処にして葦蟹なども住みけむからに、蟹田(蟹田川はガンダガワと言う)としも呼び初めにしやあるらん。
近くは薪樵る老翁、牛飼う童も行き交う道の便り悪しき片山陰の荒野にしあれば、朝の露、夕べの煙の空しき跡を訪う人ならでは、分け入るべくもあらぬ草むらになむありける。さるを大御代の栄行くに随い、湊の賑わい弥増さりつつ、野にも山にも家居立ち込み、往くも復るも所狭くなれば、かの立ち上る煙の末の里中かけて棚引き来るを、人皆いぶせく思いわびてありしに、このひた浦の事取り給いし大久保土佐守忠董朝臣の、えも言い知らぬ思したちにて、其墓所をも煙の場をも、いと遥かなる山辺に退け、なお朽ち残れる古き骸をば皆一処に集へ埋みて、大衆帰本(またはダイシュキホン)の塚と呼ぶべし。その記をも残すべしとこと定め給いてしかば、浦人拳りて尊び会える中にも、川島平吉という者殊更にこの掟を畏み、その故由を、碑を選り据え、千年の後も忘れざらしめ、また、そこばくの桜を植え添え、昔人の魂をも慰めむとなり。あわれいみじの心知らいや頼もしのまめ心や。かく言うは、この浦賀の湊に司たちて仕えまつる。

中島三郎助永胤

大畑春国篆

元治元年甲子秋九月

 

お問い合わせ

※内容等に関しましては市民協働型まちづくりモデル事業等のため、「上記記載の内容・看板の設置場所・寺・神社(場所、連絡先など)」に関することについてはお答えできかねますのでご了承ください。

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページは見つけやすかったですか?

このページは分かりやすかったですか?

このページは役に立ちましたか?