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更新日:2020年3月13日

ページID:2948

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1.浦賀ドック

 

浦賀ドックの全景(空撮)

(空から見た浦賀ドック)

明治24年(1891年)中島三郎助23回忌にあたり、旧船番所裏手の愛宕山に招魂碑が建てられ、その除幕式の席で、かつて函館戦争のときの同志であった荒井郁之助(函館での海軍奉行)が、「中島三郎助のために浦賀に造船所を造ったらどうか」と提唱し、榎本武揚は即座に賛成して地元の有力者に働きかけ、鳳凰丸建造から約40年後の明治29年(1896年)に浦賀船渠株式会社が創設されました。
これは、招魂碑の碑文にあるとおり、中島の業績を考える時、造船所を造ることが中島の菩提を弔う一番の供養になると考えたからでしょう。
このようにして創設された浦賀ドックは、在郷資本家や技術者が大きく関わりました。
現在の社名「住友重機械工業株式会社」は、昭和44年(1969年)6月に合併してからのものです。

 

 

 

 

 


(浦賀ドックのクレーン)

-長川-
この川は現在暗渠になっており、浦賀小学校方面から駅前を通り、住友重機械工業の工場敷地内に入って浦賀湾に注いでいます。
幕末の安政6年(1859年)この河口を利用して日本最初のドライドックが造られ、太平洋横断直前の咸臨丸の修理が行われました。
また、嘉永6年(1853年)ペリー来航により、幕府の大船建造禁止令が解かれると直ちに着工され、7か月程で進水した日本最初の洋式軍艦である鳳凰丸(帆船)は、同じくこの河口で建造されました。
鳳凰丸については、勝海舟が「やっかい丸」と称したので評価は低いものとなりました。
しかし近年、その歴史的意義について、船舶史研究家の石井謙治氏は著書で次のように評価しています。
「鳳凰丸の成功は、幕府に近代海軍建設の希望を持たせ、長崎に海軍伝習所を開設、さらに製鉄所(造船所)の設営といった近代海軍建設の積極策がとられ、最後には横須賀製鉄所という破格の大海軍工廠着工に至らせるのである。
鳳凰丸の建造は時代遅れだったとはいえ、結果的には近代海軍創設への呼び水となったという意義は大きい。」

(水のトンネル)

-水のトンネル-

浦賀駅から左の観音崎方面へ徒歩3~4分、住宅と駐車場の間の奥の山裾に、赤レンガの小さなトンネルが見えます。
これは、明治33年(1900年)に操業開始した浦賀ドックが工業用水を確保するために、現在の二葉2丁目にあった溜め池から掘られた、全長約1,000mの導水坑の出口です。現在は使用されていません。
旧浦賀ドックは工業用水の確保のためにこの導水坑と荒巻用水路を整備しました。
明治33年に作成された工場の設計図には荒巻用水路しか記載がなく、その完成は明治35年(1902年)12月ですが、導水坑の記録は、昭和に入って作成された図面に残されています。
この導水坑は、旧浦賀ドックが、独自のタービンを開発するため、冷却用の水を大量に必要とし、このために整備されたものと考えられます。
この工場で初めて開発された、浦賀式3連成レシプロ汽機と排気タービンによる連動主機は、昭和6年(1931年)に建造された貨客船「新京丸」に初めて搭載されているので、タービンの開発と導水坑の整備は更に溯ることとなるのでしょう。
当時は、使用後の熱くなった冷却水が、職員のための風呂の湯として利用されたそうです。

 

お問い合わせ

※浦賀ドックは、イベントなどの一般開放日のみ見学できます。(撮影禁止)
※内容等に関しましては市民協働型まちづくりモデル事業等のため、「上記記載の内容・看板の設置場所・寺・神社(場所、連絡先など)」に関することについてはお答えできかねますのでご了承ください。

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