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更新日:2017年2月27日

ページID:2956

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11.徳田屋跡

 

(徳田屋跡の碑)

(徳田屋のイラスト)

(吉田松陰)

(佐久間象山)

浦賀が江戸湾防衛の最前線になると、それまでの商人や文化人に加えて、各藩の武士も浦賀の町を訪れるようになりました。
商人や文化人は、親類縁者を頼って宿泊し、各藩でも浦賀の商人と取引のあるところは、そこを頼りに宿をとりました。
では、親類も縁者もいない人はどこへ泊まったのでしょうか。
浦賀は宿場ではなかったので、船乗り以外の旅人を宿泊させることは原則として禁止されていました。しかし、身元の確かな人(通行手形などを所持している人)は、村名主のところに頼むと泊まれる家を紹介してくれ、そこに宿泊することが許されました。浦賀を訪れる人が少ないうちは、この方法で対応できましたが、数が増えてくると対応が困難になりました。
そこで登場したのが、幕府の許可を得た旅籠でした。
文化8年(1811)3月に、初めて東浦賀に3軒の旅籠が許可されました。
なお、西浦賀の記録はありませんが、同時期に許可されたものと考えられます。江戸時代後期から明治時代にかけて、浦賀で旅館の話をするときに忘れることのできない代表的なものは、東浦賀の徳田屋と、西浦賀の吉川屋です。
浦賀の旅籠の草分けである徳田屋には、多くの武士や文化人が宿泊したことがわかっています。それは旅人自身の日記などから知れることで、徳田屋の宿帳が現存していたならば、その「宿帳」だけで浦賀の文化史を語ることができたのでしょう。明治の元勲を多く輩出した「松下村塾」の塾頭である吉田松陰は、その日記に、ペリ-来航時の対応策について、徳田屋の主人からの情報をもとにして、師の佐久間象山らと協議したことを残しています。今回の黒船来航では、2年前の見聞で、日本側の防備の実情を知っているだけに、手の施しようのない状況をしきりに残念がり佐久間象山やその門下生たちと、今後の日本のとるべき方向などを語り、議論百出した様子を記しています。
このように、歴史の表舞台にも登場する徳田屋ではありましたが、万延元年(1860)の桜田門外の事件に関しては、苦い思い出もあります。井伊大老を殺害した水戸藩士の残党が立ち回るおそれがあるので、どの旅籠でも、奉行所の役人が来て、宿泊人全員の厳重な取り調べを行う手はずになっていました。その日、徳田屋に泊まった房総からの7人の客を「明朝の取り調べが済むまで止めておくように」と指示を受けていたにもかかわらず、理由は明らかではないが、なぜか出発させてしまい、奉行所から厳重な注意を受けました。
当時、徳田屋では番所の「船改め」を受けずに、房総半島へ直行できる船便を持っており、これも徳田屋の特色の一つでした。
吉川屋は明治30年代で姿を消しましたが、徳田屋は、大正12年の関東大震災まで存続しました。今は、その跡に碑が建っています。

 

 

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