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更新日:2017年8月30日

ページID:2958

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8.東林寺(浦賀山立像院・浄土宗鎮西派)

 

(東林寺)

(阿弥陀三尊像)

(中島三郎助の肖像画)

寺誌によれば、開山は唱阿上人です。
しかし、『新編相模国風土記稿』には、「いにしえは今の寺院を分ち唱へて二ケ寺なりしを大永三年(1523)僧良道合わせ一寺とす、故に此僧を開山と称す」とあります。
本堂の正面に本尊「阿弥陀如来」が安置されています。実は、この阿弥陀仏の胎内にある、もう一体の阿弥陀仏が本当の本尊ということになります。
更にこの脇に、もう一体阿弥陀仏が安置されています。この仏像は「善光寺式阿弥陀仏」といわれ、長野県善光寺の本尊を模して造られたもので、室町時代初期の作風をよく顕しているということで、市指定の文化財になっています。本尊の阿弥陀仏と善光寺式の阿弥陀仏を見比べると、阿弥陀仏の作風の変遷が見られます。
また、鎌倉時代の作といわれる市指定の重要文化財「阿弥陀二十五菩薩来迎図」が保存されています。
墓地には、浦賀奉行所与力であった中島三郎助親子の墓があります。
三郎助は明治維新の際、あくまで幕臣としての意志を貫き、函館千代ヶ岱台場で父子ともども戦死しました。時に49歳。
しかし、浦賀に残した足跡は、まことに大きいものがあります。
俳人としても有名で、俳号を「木鶏」といいます。いまは父子共々、浦賀港を一望するこの高台に眠っています。毎年5月に、ここで三郎助の墓前祭が執り行われています。
この境内に入ってすぐ、本堂へ登る石段の右脇に石の鳥居があります。
これは、州崎町の町内稲荷である三浦稲荷の鳥居です。
この鳥居のすぐ下に「南無阿弥陀仏」と太く刻まれた石塔があります。
これを建てたのは、浦賀の遊廓(当時は洗濯屋と言った)の主人で、後に家屋敷や財産すべてを投げ出し、抱えていた遊女を解放し、自らは出家する江戸屋半五郎です。
そして、この名号を書いたのは、目黒の祐天寺の6世、祐全和尚です。
この石塔や三浦稲荷の前は、さほど広い場所ではありませんが、『浦賀事跡考』によれば、文化6年(1809)6月に雷電為右衛門が来て相撲の興行が行われたことが記されています。

 

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