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更新日:2016年8月31日

ページID:3723

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旧海軍軍需部と長浦

横須賀の海軍工廠は明治から大正にかけて規模を拡大し、大正12年に横須賀海軍軍需部が新しく設置された。庁舎は、はじめ湊町(現在の汐入町1丁目)にあったが、さらに規模を拡大するため、田ノ浦海岸が海軍により買い上げられ、湊町から移転することになった。当時、この地区は長浦の村民が住んでいたため、立ち退かされた村民は、現在の国道16号線をつくるために移転させられた村民とともに、国道よりも南側にあたる現在の安針塚駅近くに移り住んだ。
こうして、村民から買収した海岸地区の建設工事がはじまり、昭和2年、軍需部本部・倉庫等ができ湊町からの移転が完了した。これと並行して、国道から軍需部正門までの道路(現在の田の浦プール沿いの道)も整備された。長浦は、昭和になって、軍需部の湊町からの移転と国道の開通という2つの出来事により、町の姿は大きく変わっていった。国道の開通により、田浦全町と横須賀が結ばれ、軍需部で働く人も多くなった。

軍需部というのは、砲弾、魚雷、機雷などの兵器類から軍艦で使う燃料、食糧、被服までいっさいの軍需物資を工場などから集めて保管し、軍艦や前線に送り出すところである。横須賀海軍軍需部の本部は田の浦に置かれ、JR田浦駅の裏にある数多くの倉庫が長浦倉庫と呼ばれていた。長浦(倉庫13棟、その他10棟)・比与宇(倉庫12棟、その他2棟)・田ノ浦(倉庫24棟、その他32棟)、郷戸・狢・日向地区、吾妻山・箱崎(重油槽16)の本部地区のほか、久里浜倉庫・池子倉庫・久木倉庫・大船倉庫などに分かれていた。正門は現在の野球場入口付近にあり、裏門はJR田浦駅裏にあった。長浦から引込み線があり、連日、貨車が出入りしていた。戦前・戦時中、軍需部前駅(現在の安針塚駅)から軍需部など海軍関係の施設へ通う人々で行列が続いたという。
しかし、戦争が激しさを増してくると軍需部付近(現在の長浦1丁目など)の民家は「建物疎開」で強制的立ち退きをさせられ、他の土地へ引っ越ししなければならなかった。また向かい側の山に防空壕が掘られ、倉庫と従業員の避難場所とされた。

戦後、軍需部等軍の施設は進駐してきた米軍が使うことになり閉鎖されたが、1年足らずで日本に返され、昭和21年には、東京湾倉庫(後に相模運輸倉庫)、その後、大洋漁業、横須賀メリヤス工場などの民間会社が旧海軍施設に進出し操業をはじめた。長浦は、軍港長浦から平和産業の会社などのある新しく活気のある町となったが、現在は、捕鯨禁止の影響をうけ大洋漁業が去り、その後横須賀メリヤス工場もなくなった。付近は海上自衛隊や米海軍に使用され、一部横浜ベイスターズ球場などになっている。

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