閉じる

更新日:2016年8月31日

ページID:3726

ここから本文です。

箱崎半島にあった長浦消毒所

明治10年の西南の役での戦傷病者を輸送するため、和歌山丸と東海丸が派遣され、その帰航中に船内でコレラが発生した。政府は、両船に長浦湾口での停船を命じ、急きょ、箱崎に仮の避病舎を建て、診療にあたった。
明治10年(1877)のコレラによる死者は8千人。明治12年(1879)には10万人以上という明治期最大の被災となった。政府は外来伝染病を水際で食い止めるため、同年7月、「海港虎列刺(コレラ)病伝染予防規則」を公布。この規則により神奈川県は地方検疫局を設置し、箱崎に長浦消毒所を開設した。コレラ流行の港から来たり、航海中流行の地方へ立ち寄った船舶は、東京湾に入船する前に10日間長浦港(避病港)に停泊し、長浦消毒所の検査をうけなければならないことになった。
しかし、日清戦争が始まると横須賀軍港の拡張にせまられ、長浦消毒所は明治28年金沢村の人家の少ない長浜に移転し、長浜検疫所が開設された。同32年には海港検疫制度が開始されて内務省の所管となり、「横浜海港検疫所」として設備を一新した。この時、検疫官補として野口英世が赴任して来た。

お問い合わせ

このホームページの作成は、田浦行政センターですが、神社、寺その他施設のご利用や内容に関するお問合せにはお答えできませんのでご了承ください。

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページは見つけやすかったですか?

このページは分かりやすかったですか?

このページは役に立ちましたか?