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更新日:2017年2月20日

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三浦一族の歴史

 三浦氏の祖は『寛政重修諸家譜』によると、平為通が三浦郡衣笠城を築き、初めて三浦姓を称したとしていますが、『源平闘諍録』『千学集抜萃』『常陸大掾伝記』では、すでに為通の伯父平忠光が三浦郡に住み三浦姓を名乗ったと書かれています。三浦一族は初代衣笠城主を家祖としたようです。

 三浦一族は、三浦半島のみを支配していたかというと決してそうではありません。その支配地は対岸の房総はもちろんのこと、陸奥糠部(ぬかのぶ ※青森県から岩手県にかけての地域)から南は九州筑前(※福岡県の一部)にまで広がっていました。三浦姓が全国に現存するのはそのためです。

 三浦為通の子為俊は、白河院より直奏(じきそう※取次を経ずに直接天皇に申し上げること)を許された「切れ者」で、院が初めて置いた北面(ほくめん)武士に抜擢され、勅命により藤原章俊の猶子(ゆうし※親子関係を結ぶこと)となりました。為俊の「俊」の一字は養父章俊が与えた一字と思われます。為俊は検非違使尉(けびいしのじょう)、河内守、下総介、駿河守を歴任するなど、平忠盛(清盛の父)と肩を並べる存在でありました。為俊は北面武士であった歌僧西行の叔父佐藤公俊(きんとし)を養子に迎えています。源頼朝挙兵の際、三浦大介(おおすけ)義明が迷わずこれに応じたのは、頼朝の父義朝が娘婿であったからに他なりません。義明は平治の乱で義朝・義平父子を失い、以来、関東御後見は大庭景親に命ぜられ、義明が源氏より与えられた相模介職(すけしき)は有名無実でした。このため、三浦氏にとって源氏再興は宿願であったのです。

 義村(義明の孫)の娘(矢部禅尼)は、北条泰時に嫁し嫡子時氏を生みました。この時氏の子息が、のちに執権となる経時、時頼です。義村は先祖為俊が任官した例により受領(ずりょう)駿河守に推挙され、子泰村は若狭守・河内守護、光村は検非違使尉・河内守・壱岐守・能登守に任官し、一族は守護職数か国、庄園数万町をつかさどるところとなりました。京側の史料から垣間みえることは、義村は、承久の乱の戦後の処理と宮中の守護を命ぜられ、後堀川天皇を践祚(せんそ)させたり、後鳥羽院領の返給条件の伝達など幕府の朝廷政策の根源に触れる問題を委ねられていたことです。将軍頼経の二人の花嫁も関白藤原道家と義村の合意により決定したようです。執権義時亡き後は、関白の地位を左右するほどの影響力を持ち、北条氏に次ぐ権門であったと思います。

 三浦一族が、その陰りを見せ始めたのは義村の頓死です。子泰村が娶った執権北条泰時の娘と妹が相次いで死去し、泰村の烏帽子親(えぼしおや)であった泰時が没し執権家との絆が絶たれ、さらに宮騒動により最大の弁護者・前将軍頼経が帰洛させられました。執権時頼の外戚となった安達氏は、これを好機とみて戦いを仕掛け宝治元年(1247)、三浦氏宗家は滅亡しました。

 このとき泰村の異母姉矢部禅尼の子光盛、盛時、時連らが、母の旧好により北条氏について生き残り、盛時が宗家の三浦介を継ぎました。この盛時の子孫が三浦郡新井城主義同(よしあつ)であり、光盛の流れが三浦郡葦名を本拠とする会津の戦国大名葦名氏であり、時連の孫貞宗が三浦郡横須賀郷を本拠に持つ美作(岡山県)の初代高田城主であります。特に下野守貞宗は足利尊氏の命により京都天竜寺の造営奉行として開山夢窓疎石と関わり、貞宗の甥貞連は横須賀郷に泊船庵を建て、夢窓疎石を招いています。このような高僧を外護した三浦一族の財力と教養をうかがい知ることができます。

 ちなみに三浦義同の子孫である養珠院お万は、徳川家康の側室となって紀伊・水戸の両藩祖頼宣・頼房を生みました。つまり徳川光圀はお万の愛孫です。徳川将軍は八代吉宗以降、お万の子孫である紀伊・水戸の両藩主によって占められています(文責・鈴木かほる)。

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