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更新日:2016年12月7日

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『浦賀道』を歩く

このページは「横須賀開国史研究会」のご協力により、同研究会が平成25年の1月と3月に実施した「史跡めぐり」の参加者配付資料に基づき作成しました。

『浦賀道』とは

享保5年(1720年)、江戸湾防備のために伊豆下田から浦賀へ奉行所が移されると、江戸と浦賀間の人や馬の往来が盛んになったことから、三浦半島に浦賀にいたる東西2本の道が作られた。これが浦賀道である。

東の浦賀道は、東海道「保土ヶ谷宿」から六浦(ここまで武蔵国)を過ぎて相模国に入り、浦郷、十三峠を越えて、逸見、汐入、公郷、大津等を通って、矢の津坂から浦賀に入った。江戸からは17里半(約69km)である。こちらが「うらがみち」である。金沢から横須賀に至る道は難所の連続であり、この山越えを避けるため、品川から江戸湾沿いの港、神奈川、金沢、榎戸、大津などに寄港し、浦賀に至る海路も利用された。今回の「浦賀道を歩く」ではこの道を辿ります。

西の浦賀道は、東海道の「戸塚宿」から鎌倉道に入り、鎌倉を経て葉山、木古庭、平作、衣笠、大津に至り東の浦賀道と合流するものである。江戸から浦賀まで20里(約79km)である。この道は古代の東海道と推定される。浦賀奉行が江戸への往復に利用するなど公道の位置付けで、東海道のように「うらがどう」と呼ばれていたとの事である。

東の浦賀道を通った安藤広重

風景画家として有名な広重は高輪の自宅から、井土ヶ谷・金沢八景・田浦・大津・浦賀と風景を求めて、この道を歩いたことが残された作品によって判明する。天保13年(1842年)~嘉永6年(1853年)の間と推定される。木版画の浮世絵『武相名所手鑑』(計37枚)は昭和38年頃発見された。続いてこの手控えともいえる広重自筆のスケッチブック『旅絵日記』が昭和48年頃発見された。これらにより、大津海岸、矢の津坂、田浦、十三峠などの昔の風景を窺い知ることが出来る。

 『浦賀道』を歩くその1(浦賀奉行所跡から汐入まで)

その2(汐入から追浜まで)はこちら

コース(所要:約4時間)

浦賀奉行所跡→為朝神社→常福寺→大衆帰本塚碑→矢の津坂

→大津館跡→砂坂地蔵尊→春日神社→浄蓮寺→永嶋家赤門

→池之端→道路元標→うぐいす坂→ヨゼフ病院附近→京急汐入駅

ポイント解説

浦賀奉行所跡

四囲を巡る石垣と石橋のみ残る。元々東西45間(約81m)、南北40間(約72m)程の広さ。役所の建坪が約610坪。天保期の絵図によると、役所は周囲を堀で囲まれ、東面北側に表門、北面中央に裏門があった。門前に与力や同心と呼ばれる役人の住む家が並んでいた。享保6年(1721年)から慶応4年まで約150年間、52人の奉行が勤めた。浦賀病院の前が浦賀奉行所の出先機関で「船改め」を行った船番所跡である。

為朝神社

創建は文政期(1820年代)。元は地元の漁民が漂流していた木像を拾い地蔵堂に安置していた、その像が鎮西八郎為朝の像であったと伝わる。航海の守護神として信仰されている。奉行所が下田から浦賀に移った当時、一緒に移動した下田の人が懐かしみ伝えたという「虎踊り」が伝承され、毎年6月の祭礼の際に奉納されている。
「虎踊り」は近松門左衛門の「国性爺合戦」を工夫し、それぞれの地域で発展・継承されてきた。県の民俗文化財に指定され、横須賀では野比にもある。

常福寺

開山は文明年間(1469年~1486年)。浄土宗。墓地には奉行所与力、佐々倉家や合原家の墓や遊女を解放し侠客義人ともいわれた江戸屋半五郎(後に深本と名乗り諸国の霊場をめぐって、晩年は浦賀に戻って亡くなった。)の墓もある。
浦賀奉行所の御用寺院の役割を持ち、奉行が交替すると儀式がこの寺で行われた。近くに奉行が渡ったという石橋が残っている。
現本堂は大正11年に鎌倉の本覚寺本堂を移築したもの。これも元は文久2年(1862年)に藤沢の瀧口寺から移築したものであり、軒回りや内陣の構造には室町末期の禅宗様式が見られるということである。
この寺には幕末に山岡鉄舟や勝海舟も訪れている。

大衆帰本塚碑

安政5年(1858年)疫病により多数の死者が出て、連日火葬が続いた。このため火葬場を移し一箇所に集めて埋葬することにして大衆帰本塚と呼んだ。
元冶元年(1864年)建立。碑文は中島三郎助の筆跡。元々浦賀警察署の裏山中腹にあった。この辺りは当時の浦賀のはずれにあたる。

矢の津坂

元々は、大変な急坂で雨が降ると膝まで埋まる悪路で「馬子泣かせの道」といわれた。
広重が描いた「浦賀近辺山中の月」は矢の津坂の中腹であろうといわれる。坂は明治から大正にかけて地元有志が発起人になって改修工事を行い、昭和18年頃には陸軍の要請で拡幅されて現在のような状態になった。

大津(たいしん)館跡

現在の石橋医院斜め前方にあった。2代目の浦賀町長を務めた、地元の石渡真三郎が中心になり、明治29年創業した大きな旅館。大津海岸は海水浴場として賑わい海水旅館と銘打っていた。
敷地1500坪。2階建520坪。客室80。明治39年東京・日本橋の鰹問屋に買収されて勝男館と改名。その後衰退してなくなった。

砂坂地蔵尊

砂坂は往時は砂と石くれの難所であった。地蔵堂があり、左が砂坂地蔵で右が白須川(しらすがわ)地蔵と称している。他に1石2段彫りの六地蔵も併置されている。近くに「すなさかはし」欄干も残っている。その橋の下を流れた川は今は暗溝となっている。

春日神社

奈良の春日大社から勧請した公郷村の総鎮守社。元は猿島に本殿があり、島に向かって遥拝するように享和元年(1801年)に拝殿が設けられた。明治の初めに猿島に砲台を建設するため現在地に社殿を造営。猿の狛犬が面白い。

浄蓮寺

日蓮宗。応永年間(1394年~1427年)の頃、創建といわれている。本堂の前に日蓮上人の像があり、上人がここに上陸したと伝わる由来が台石に刻まれている。幕末に寺子屋が開かれ、明治5年の学制で学舎となった。今の豊島小学校の前身である。寺の隣は「天保水滸伝」で有名な飯岡助五郎(本名:石渡助五郎)の生誕の地。

永嶋家赤門

江戸時代の総名主・永嶋家の長屋門。朱塗りであることから赤門と呼ばれている。門扉は江戸時代のものと推定されるが、柱や桁などは新しく何度か改修されている。
永嶋家は三浦氏の子孫と伝えられ、戦国時代は小田原北条氏の支配下にあって浜代官を努め、江戸時代には名主を務め代々永嶋庄兵衛を名乗っていた。
島崎藤村の『夜明け前』にもこの永嶋家が「公郷村の古い家」として登場してくる。赤門の脇に文久2年(1862年)の浦賀道を示す円柱形道標があり「右大津浦賀道、左横須賀金沢道」と刻まれている。以前は今と反対側の磯浜の側の聖徳寺坂下にあった。
また今は米が浜で営業している料亭「小松」はこの赤門の前にあった。

池之端

税務署の前の商店街一体は、池之端と呼ばれているが、昔ここに田戸溜池とよばれる大きな池があったことによる。東西76m、南北109m、面積8500平方メートル。近隣の人々の憩いの場でもあり、佐野の水田の灌漑用水として使われたが、明治30年頃から埋め立てが始まり、明治の末期には姿を消した。弁天様が祀られている。

道路元標

平坂上の派出所前、浦賀道が平坂と交差する辺りに「道路元標」と刻まれた石柱が立つ。道路の起点、終点や経過地を示す標識で大正8年の旧道路法によって置かれ、それ以前は木製であったという。国道31号(現16号線)の終点であり、県道横須賀三崎線の起点でもあった。

うぐいす坂

浦賀道のうち、この周辺はうっそうとした樹木に覆われ、うぐいすの鳴く音が絶えないので、特にこの坂は「うぐいす坂」と呼ばれていた。この坂上に咸臨丸渡米時の副艦長格であった浜口英幹(ひでもと)が幕末から明治にかけて住んであおり、花に包まれたたたずまいで花屋敷と呼ばれていた。

ヨゼフ病院附近

ヨゼフ病院は横須賀市の最初の市庁舎があったところで、震災で壊れた跡地に昭和14年に建てられた。地形と機能をコンクリートの特性を生かしてデザインされた凹型の曲面を持つ建物。
隣の諏訪神社は横須賀の鎮守社である。康暦2年(1380年)三浦貞宗が信州・諏訪大明神を勧請したもの。
病院裏の崖下に、明治天皇の行幸の際、使用する水を汲んだ井戸と「禁廷水の碑」がある。

 『浦賀道』を歩くその2(汐入から追浜まで)

その1(浦賀奉行所跡から汐入まで)はこちら

コース(所要:約4時間)

京急汐入駅→御幸橋→稲荷山・子育地蔵尊→浄土寺→鹿島神社→按針塚

→十三峠→開拓記念碑→道六神石碑→長善寺→盛福寺→

首斬観音→浦郷陣屋跡→雷神社→傍示堂石塔群

ポイント解説

御幸橋

横須賀造船所の進水式に臨まれる明治天皇が何度も行幸された橋の名残の欄干。馬車がすれ違うのがやっとの幅の小さな橋であったという。元は汐入駅の近くにあった。最初は木製で大正4年に石橋に改修された。

子育地蔵尊

稲荷山の中腹にあたる場所にある。本尊には左に「元禄十一年丑七月」と、右に「南無阿弥陀仏同行十六人」と刻まれている。元禄の頃、子供連れの旅人16人全員が飢えのため、ここで亡くなったという。村人が大変哀れんで地蔵尊を建てて冥福を祈ったといわれている。

逸見旅館跡

明治初期に開業した。昭和初期からは官納業の許可を得て、大晦日には餅や松飾を横須賀港に停泊中の軍艦に納めた。太平洋戦争時には海兵団入隊の親子が最後の一夜を過ごし大変賑わったという。平成22年に取り壊された。

浄土寺

浄土真宗の寺で、本尊は阿弥陀如来。
鎌倉時代の武将・畠山重忠の創建といい、当時は天台宗であったが、天正年間(1573年~1592年)に改宗された。この附近は「ぶどう畑」と呼ばれ、按針の屋敷があったというが定かではない。この寺には按針の守護仏と伝える聖観音像(銅製、鎌倉時代後期作、像高25cm余)と貝多羅葉(ばいたらよう)の梵文経が残っている。
また江戸中期の延享4年(1747年)の梵鐘がある。この鐘は戦時中の金属回収令で供出されたが、幸いつぶされず、戦後一時米国へ持ち出されたものの浄土寺のものと分かり、昭和35年に戻された。

鹿島神社

常陸の鹿島神宮の分霊を祭る神社で創建は室町初期の応永17年(1410年)三浦遠江守。再建は按針の子ジョセフである。初めは鹿島崎(現在の海上自衛隊横須賀地方総監部辺り)に祀られていたが明治24年に焼失し同29年現在地に再建された。
社殿の彫刻は、西叶神社の社殿を彫刻した後藤利兵衛の門人後藤喜三郎の作品。
近くに、初代の海軍軍楽隊長であり、「君が代」の制定にも貢献した中村祐庸(すけつね)が住んでいた。

按針塚(塚山公園)

慶長5年(1600年)豊後の国に漂着したアダムスは徳川家康に外交顧問として重用されて「三浦按針」と名乗った。日本橋に屋敷を、逸見村に250石の知行を与えられた。
元和6年(1620年)平戸で病没している。この2基の供養塔は江戸期の宝篋印塔で、明治39年に現在の形に再建されたものであり、右が按針、左が妻ユキの墓碑。

十三峠

浦賀道最大の難所で、急な山坂の連続である。十三峠の名の由来には、いろいろな説がある。保土ヶ谷より13番目の峠ということで名付けられたという説や、峠に13仏を祭った寺か神社があってそれにちなんだもの等である。
十三峠からの眺めは素晴らしく、安藤広重も、この峠を旅し「浦賀道田浦山中」「毛見(逸見)の山中風景」などを描いている。安針塚近くの鹿島台が後者のスケッチ場所と推定されている。

開拓記念碑

戦後の食糧不足の対策として、昭和23年3月に十三峠農地開拓団が結成され、鍬入れ式が行われた。当時の入植者は20世帯で掘っ立て小屋を建て、ランプの下で寝起きしたという。昭和32年に記念碑が建てられた。

道六神石碑

長善寺に降りる坂道(大田坂:おったざか)の途中にある小さな石碑。天保12年(1841年)に建立された道祖神(道六神)。これは村境や峠道などに祀られ、そこから伝染病や悪霊が入り込まないように境を守る神で塞の神、道陸神とも呼ばれている。
また道行く人を守る神ともされ、十三峠を行き来する人が旅の安全を願ったのであろう。この石碑には「念仏講中、世話人、七右衛門、六右衛門」と刻まれている。

長善寺

天正4年(1576年)創建。開山は長善和尚で浄土宗。本尊は阿弥陀如来。本堂には三浦道寸の守り本尊と伝わる不動明王像がある。
ここは浦賀道の難所・十三峠の山越えに備えるところであった。境内に地蔵堂があり、旅の安全を願っておまいりしたという。また田浦に移り住んだ大正から昭和にかけての俳人鈴木明仙の「池涸れて石にぬしある寺苑かな」の句碑もある。

盛福寺(せいふくじ)

江戸時代初期に臨済宗円覚寺の末寺として創建された。元禄3年頃には七堂伽藍が建立されたが火災により山門以外は焼失し明治29年に再興された。
山門は主柱に4つの脚がつく棟持柱式といわれる四脚門である。建築年代は16世紀末~17世紀初頭と考えられ、市内の寺院建築最古の建築物で市指定重要有形文化財となっている。山門前には六地蔵や石仏がある。
浦賀道は盛福寺横の階段坂道に続いているが、港が丘団地となって昔の浦賀道はとだえている。

首斬観音

碑名の本当に罪人の首を切ったのか言い伝えだけで記録は無いが、天保年間は凶作が続き犯罪も多発した時代で、罪人が処刑されたことも有ったと思われる。碑文は船越に住んだ俳人の「松竹庵梅月」の書によるもの。

浦郷陣屋跡

小田原北条氏時代の浦郷村領主の朝倉能登守景隆の屋敷があったところと伝えられ、戦国時代から江戸時代の後期にかけて陣屋が置かれた場所。前橋藩、川越藩、会津藩などが、この地を陣屋または支陣屋として使用し、税の取立てや治安維持、海防の守りについた。

雷(いかつち)神社(通称「かみなり神社」)

祭神は火雷神(ほのいかつちのかみ)。創建は承平元年(931年)。
永禄年間(1558年~1570年)に落雷があったが、村人たちは火雷神のおかげで助かったという。領主の朝倉能登守が天正9年(1581年)に駅近くの築島から現在地へ移している。境内のイチョウの木は樹齢400年を越し、垂れ下がる「乳頭」は安産や子育ての信仰の対象となっている。昭和23年に火災で焼失し、昭和35年に再建されている。浦賀道は一の鳥居と二の鳥居の間を南北に貫いていたという。

傍示(ほうじ)堂石塔群

この辺りが武蔵国と相模国の国境で、隣国から入ってくる罪人や悪人を監視する見張り小屋があり、傍示堂と呼ばれていた。石塔は五輪塔(古いものは鎌倉時代のものといわれる)、道祖神、庚申塔、六地蔵などであり、元の位置は、ほぼ京急線路上にあったものが、ここに集められた。
尚、広辞苑によると「牓示(ほうじ)とは、くい、または石などによって領地、領田の境界の標示としたもの」とあり本来は「牓」という漢字であったと考えられる。

 

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