総合案内 > 健康福祉・子育て教育 > 歴史・文化 > 歴史 > 横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)
更新日:2022年10月11日
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明治初期の横須賀製鉄所(造船所)の全景(現在の米海軍横須賀基地内にありました)
嘉永6(1853)年ペリーの来航により、横須賀は日本が近代社会への歩みを記す最初の地となりました。その後、江戸幕府は諸外国からの圧力をうけたため横浜などを開港しますが、それがきっかけとなり、自分達の力で日本を守る必要性を考えるようになりました。そのためには、海軍力を増強させ、軍艦を造り、近代的な造船所を建設する必要がありました。その計画を立てたのは、幕府の勘定奉行などを歴任した小栗上野介忠順でした。
造船所の計画は、フランスの力を得ることにより現実化します。
当時幕府は、欧米の5か国と通商条約を締結しており、小栗らは当初アメリカに造船所建設の協力要請をしました。しかし、当時のアメリカは国内で南北戦争が起きていたため、協力を拒まれました。イギリス、ロシア、オランダも、それぞれ国の事情があったため、技術協力を受ける国を探すのは難航していました。
そのような中、フランスは国内で製糸業を支えていた「カイコ」が伝染病にかかり、産業が壊滅状態となり、生糸の輸入と伝染病に強い「カイコ」を海外に求めていました。そのため、駐日フランス公使ロッシュが積極的に幕府へ接近を図ってきました。その時、幕府とフランスとの仲立ちをしたのが、栗本鋤雲とフランス人のカションという人物でした。栗本鋤雲は、小栗とは竹馬の友の仲であり、カションは、栗本が函館にいた時代に共に過ごした仲で親密な間柄でした。この小栗、ロッシュ、栗本、カションの4人で面談が行われ、その後1か月もたたないうちに、造船所の設置場所として横須賀が選ばれることになったのです。
造船所建設の技術的な役割は、当時中国にいたヴェルニーに任せられました。来日したヴェルニーは、フランスのツーロン港に似た横須賀港を気に入り、造船台やドライドックなどの施設を建設する計画を立てましたが、技術者確保と工場で使用する機械類を購入するため一時的にフランスへ帰国しました。
ヴェルニーが一時帰国している間に、幕府はこの造船施設を「鉄を加工する場所」という意味で使われていた「製鉄所」という名称にした上で、慶応元(1865)年11月15日、横須賀製鉄所のくわ入れ式(起工式)を執り行いました。
その後、ヴェルニーは再来日し、工事が進められます。時代は江戸幕府から明治新政府へと変わりますが、工事はそのまま引き継がれます。明治4(1871)年に待望の第1号ドックが完成し、名称も横須賀製鉄所から横須賀造船所に変わります。この年の11月には、明治天皇も横須賀へ行幸して、横須賀造船所を訪問しました。
2014(平成26)年、世界遺産に登録された群馬県にある富岡製糸場は1872(明治5)年に建てられましたが、これは横須賀製鉄所にいたフランス人技術者バスチャンが設計したものなのです。
富岡製糸場に現在も残されている建物の特徴である「木骨れんが造」(木材の骨組みにれんがを積み上げる工法)や、従来の日本にはなかった屋根の工法である「トラス工法」は、明治3(1870)年までに横須賀製鉄所内に建てられていた副首長のティボディエ官舎をはじめ、横須賀製鉄所内にあった建物の中に、その原型を見ることができます。
また、富岡へ製糸機械などを取り入れたフランス人のブリュナと、横須賀製鉄所の首長であったヴェルニーは大変に親しい関係であったこともわかっています。
先に建設された横須賀製鉄所の存在があったことにより、富岡製糸場ができたとも言えるのではないでしょうか。
(写真提供:富岡市富岡製糸場)
フランスからやってきた技師ヴェルニーの指揮のもと、横須賀製鉄所で日本初となる石造りのドライドック(艦船の建造や修理のための施設)が建造され、数多くの船を建造、修理してきました。なんと140年近くがたった現在でも、在日米海軍横須賀基地内で稼動している働きものです。
このドックは石積ですが、来日したフランス人技術者たちは、日本人が木と紙で造られた家に住んでいるため、本当に石積みをできるのか不安に感じていました。しかし、実際の工事を目の当たりにして、フランス人技術者は日本人の石積み技術の高さにも驚かされています。
(写真は、最も古い1号ドック(手前)と2号ドック(奥))
現在の米海軍基地内にある、明治4(1871)年2月に完成した石造りのドライドックは、ヴェルニーを中心としたフランス人技術者たちが設計したため、フランスで使われていたメートル法が使用されています。このメートル法を、工事にあたる日本人の土木者たちは、当時日本で使われていた尺貫法にすべて置き換えて、みごとにドライドックを完成させたのです。
戦前の日本海軍は、後にイギリス海軍式を模範としますが、長さの単位は一貫してフランスのメートル法が守られました。なお、日本で正式にメートル法が実施されるのは、昭和34(1959)年からです。
フランス人により労働管理がされていた横須賀製鉄所では、仕事の始まりも終わりも西洋式の時計で行われ、労働時間は午前6時30分から午後5時30分までと決められていました。江戸時代の日本でも和時計がありましたが、季節で時間の長さが変わってしまい、地域も限定されていたため、広域での共通時間を定めることはありませんでした。
横須賀製鉄所では製綱所(船に使うロープを製造する工場)の上に時計台を建設して、この時計を所内での標準時間として、15分遅れで出勤すると欠勤扱いにされてしまいました。西洋式の時間管理の普及を図るためです。
また、これとともに、西洋式の曜日制度も採用され、日曜日を休日することにしました。更に労働者への給与は、当時では珍しい月給制度を採用するなど、横須賀製鉄所では江戸時代は大きく違った労働管理や時間管理が行われていました。
横須賀製鉄所では医師が常駐し、職員・職工のけがや病気の治療に当たりました。また、フランス人技師らと日本人の職工が親睦のために様々な競技(綱渡りや丸太のぼりなどもあったらしい?)をする運動会も行われていました。
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