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更新日:2021年3月4日

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日本を開国へと導いた立役者!「浦賀奉行所」

2020年に「浦賀奉行所」は開設300周年を迎えます

浦賀奉行所は享保5年(1720年)12月(旧暦)に設置され、船改めをはじめとして、海難救助や地方役所としての仕事などを担うとともに、異国船から江戸を防備するための海防の最前線として、重要な役割を果たすようになりました。
また、浦賀はペリー来航による開国の地であるとともに、江戸から近代にかけて造船で栄えたまちでもあります。
このような奉行所を中心とした浦賀の歴史は、本市の重要な歴史遺産であると考えます。
2020年に浦賀奉行所は開設300周年の歴史的な節目を迎えます。

浦賀奉行所の模型(浦賀コミュニティセンター分館にて展示中)

浦賀奉行所開設300周年に向けた取り組み(イベントなど)

浦賀奉行所開設300周年を記念ホームページを開設します(令和2年8月)

令和2年度に実施する浦賀奉行所開設300周年記念事業、関連イベントなどの情報を発信していきます。

浦賀奉行所開設300周年記念ホームページ(外部サイト)

浦賀奉行所開設300周年記念TOP画像

浦賀奉行所開設300周年を記念して、8㎜フィルムを活用した地域映画を制作します      (令和2年6月) 

制作の概要

制作には、浦賀小学校6年生が地域映画づくりにチャレンジします。                     また制作過程に多くの市民の方にも参加していただきフィルム等を収集し、誰もが大切にしている記憶や物語を拾い集めることで、造船業で活気のあった当時の浦賀の活力を取り戻し、未来へ向けて浦賀の魅力が残る作品を制作する予定です。

8㎜フィルムの募集について

映画の制作にあたり、浦賀で記録された8㎜フィルムを募集します。 

  • 募集概要                                             
    募集条件:本プロジェクトに賛同し、フィルムの貸し出しにご協力いただける方

   募集フィルム:浦賀で撮影された8㎜フィルム

   募集期間:2020年8月31日(月曜日)まで

   募集チラシ:浦賀の8㎜フィルム募集について(PDF:181KB) ※詳細はチラシをご覧ください                                   

浦賀奉行所をわかりやすく解説したリーフレットの配布開始(令和2年1月) 

2020年に開設300周年を迎える浦賀奉行の歴史や役割などを絵や写真でわかりやすく解説した「やさしく解説 浦賀奉行所」の配布を開始しました。

  • サイズ・内容:
    A3版、2つ折り、カラー両面刷り
    浦賀奉行所の歴史や果たした役割、関係のある主な人物などを図説でわかりやすく解説
  • 配下場所:
    市内公共施設など
  • リーフレット:
    「やさしく解説 浦賀奉行所」(PDF:3,451KB)

    やさしく解説 浦賀奉行所 

浦賀奉行所開設300周年を記念したリーフレットの配布開始(平成30年4月)

2020年に開設300周年を迎える浦賀奉行の歴史や役割を開設した、「記念リーフレット」の配布を開始しました。

  • サイズ・内容:
     A4版、3つ折り、カラー両面刷り
    浦賀奉行所の歴史や果たした役割などをわかりやすく解説                       執筆=山本詔一(郷土史家)
  • 配下場所:
    市内公共施設など
  • リーフレット:
    「浦賀奉行所」(PDF:3,482KB)

    奉行所リーフレット表紙2

浦賀・鴨居地域運営協議会が、浦賀奉行所開設300周年に向けたチラシを発行・配布しました
(平成30年3月)

浦賀・鴨居地域運営協議会では、2020年に開設300周年迎える浦賀奉行所について、地域の多くの人に知ってもらい、理解と愛着を深めていただくため「皆で応援しよう。浦賀奉行所開設300周年」のチラシを作成しました。

平成30年3月に、浦賀地域の小学校5年生、6年生に配布するとともに、浦賀・鴨居地区の各町内会・自治会に配布を行い、浦賀奉行所の功績について発信を行いました。

  • サイズ・内容:
    A4版、カラー両面刷り
    (表面)「皆で応援しよう。浦賀奉行所開設300周年」のタイトルとイラスト
    (裏面)浦賀奉行所の歴史と役割の解説と、ペリー来航までに浦賀沖に来航した異国船の一覧
    (執筆=山本詔一(郷土史家))
  • 配架場所:
    浦賀行政センター、浦賀コミュニティセンター分館など                                  

浦賀奉行所が歩んだ歴史

1.浦賀奉行所の設置と主な役割

浦賀奉行所は、江戸幕府の直轄地の要地に置かれた遠国奉行の一つとして、1720年(享保5)12月に、下田から機能を移転して新設されました。移転当初の主な役割は以下の3点です。
1.江戸に出入りする船舶等の検査監督
2.付近の幕府領地の民政一般の実施
3.付近の幕府領地の刑罰や裁判の実施
特に1.は、江戸時代に入ってから海運が発達して、全国各地から江戸に出入りする船舶が増えたことにより、その取り締まりを行う「海の関所」としての役割を担っており、浦賀奉行所の設置から廃止まで機能し続けていました。上記に加え、1818年(文政元)の英商船ブラザーズ号の来航や、2年後の1820年(文政3)会津藩が相模国の警護を免除されたことなどにより、浦賀奉行所の役割に以下の2点が加わりました。
4.外国船に対する海防やそれに伴う関係諸藩の指揮
5.幕府の指揮による外国船の応接
これらの役割は、江戸近海に来航していた外国船に対する防衛や交渉を行うという大きな任務でした。ペリー来航以前に江戸近海に来航した外国船はいくつかありますが、それに対する浦賀奉行所による対応は、その時点の幕府の方針により異なっていました。
1837年(天保8)に日本人漂流民を乗せ来航した米商船のモリソン号に対しては、当時の異国船打ち払い令の方針に従い、浦賀奉行所は砲撃を行い、その結果モリソン号は退去しました。
しかし、1839年に中国で起きたアヘン戦争により、1842年(天保13)、幕府は異国船打ち払い令を止め薪水給与令を出しました。その後、浦賀に来航した米捕鯨船のマンハタン号に対しては、浦賀奉行所は砲撃を行わず、漂流民の受け入れを行っています。
※参考文献…『浦賀奉行所』(西川武臣著)、『新横須賀市史』(通史編近世、年表)

広重画 山海見立相撲 相模浦賀
〈横須賀市自然・人文博物館所蔵〉
浦賀を描いた浮世絵。絵の中央に燈明堂が見える。

2.ペリー来航と浦賀奉行所

1853年(嘉永6)6月3日、ペリー提督が率いるアメリカの軍艦4隻が浦賀沖に来航しました。この時、ペリー艦隊と最初に話しあった日本側の主役が、浦賀奉行所の役人たちでした。彼らは、これまでの外国船とのやり取りで交渉には慣れていたため、すぐに軍艦に乗ろうとしましたが、ペリー艦隊はそれを拒絶しました。ペリーは、当初から奉行所の中でも身分の高い人物しか交渉しないことにしていたのでした。
そのような中で、最初にペリー艦隊と交渉をしたのは、浦賀奉行所の与力中島三郎助と通訳の堀達之助でした。堀は「私はオランダ語を話すことができる」と英語で言い、隣にいた中島を「彼は浦賀の副奉行である」と言いました。当時の浦賀奉行所に「副奉行」という役職は無いのですが、堀が交渉を進めるため、とっさの判断で「副奉行」の役職を言ったといわれています。これに対してペリーは2人を軍艦に乗せ、これをきっかけに交渉が始まりました。
翌4日には、与力である香山栄左衛門が「浦賀奉行」の役職を詐称して軍艦に乗船して交渉に当たっています。この後、ペリーの久里浜上陸までの交渉は、香山を中心にして行われました。香山ら浦賀奉行所の役人による交渉の結果、ペリーは6月9日に久里浜に上陸し、アメリカ大統領の国書を本当の浦賀奉行である戸田氏栄と井戸弘道に渡しました。与力の香山が「浦賀奉行」と詐称していたため、ペリーは浦賀奉行の戸田・井戸の2名を、それより高い地位の人物と信じていたようです。
※参考文献…『浦賀奉行所』(西川武臣著)、『新横須賀市史』(通史編近世、年表)

米国国書受領之図
〈横須賀市自然・人文博物館所蔵〉
ペリーの久里浜上陸を南側から描いた絵図。
絵図の上側には浦賀も描かれている。

3.鳳凰丸建造と浦賀奉行所

ペリー来航直後の1853年(嘉永6)8月、浦賀奉行2名は幕府の老中に対して軍艦の建造を願い出ました。これを受けた幕府は浦賀での軍艦建造を命じ、現在の浦賀ドック付近で初の国産洋式軍艦「鳳凰丸」が浦賀奉行所の役人により建造されて、翌年に完成しました。
1855年(安政2)には、与力の中島三郎助などの役人たちが鳳凰丸の乗組員となり、幕府の老中へお披露目をするため浦賀を出発し品川沖まで航行しました。鳳凰丸を実際に見た幕府の老中たちは、鳳凰丸は遠洋航海には不適当であるが、江戸内湾の警護のためには役立つという評価をしました。また、浦賀奉行の与力、同心の操縦の腕前については好意的な評価でした。
そのため、幕府はオランダから蒸気軍艦を輸入し、オランダ人教官による海軍伝習について計画しました。鳳凰丸の建造や砲術などの経験を買われた中島をはじめとした浦賀奉行所の役人たちは、幕府の命により長崎の海軍伝習所へ行き、訓練を受けることになりました。
※参考文献…『浦賀奉行所』(西川武臣著)、『新横須賀市史』(通史編近世、年表)

鳳凰丸の模型〈浦賀コミュニティセンター分館に展示〉

4.横浜開港から浦賀奉行所の廃止まで

1858年(安政5)に日米修好通商条約が締結され、その後横浜が開港すると、外国船の応接は新設された神奈川奉行が引き継ぎ、浦賀奉行所の外国船応接を行う役目は終わりました。しかし、「海の関所」としての浦賀奉行所の役割は、幕末の政局の混乱がある中でも引き続き行われています。また、鳳凰丸が建造された現在の浦賀ドック付近には軍艦の修復場もあり、幕府が所有している軍艦の修復も行われていました。
1860年(万延元)、日米修好通商条約批准のため遣米使節が派遣され、浦賀奉行所の与力や同心も咸臨丸に乗船していました。なお、同じ遣米使節の船であるポーハタン号には、横須賀製鉄所(造船所)建設の立役者である小栗上野介忠順が乗船していました。この遣米使節が日本へ帰国したのち、小栗上野介は造船所の建設を計画し、フランスのサポートを受けて1865年(慶応元)、横須賀に製鉄所(造船所)の建設を開始しました。
そして、明治新政府が江戸城に入り、幕府軍の敗戦が決定的になると、江戸幕府の支配拠点の一つであった浦賀奉行所も1868年(明治元)閏4月に新政府に接収され、その役割を終えることになりました。
※参考文献…『浦賀奉行所』(西川武臣著)、『新横須賀市史』(通史編近世、年表)、『続横須賀人物往来』

 

 

コラム「16世紀後半から17世紀前半の浦賀とスペイン貿易」

浦賀は、中世から良港として知られており、戦国時代には北条氏の大きな水軍基地があったといわれています。1590年(天正18)北条氏が豊臣秀吉によって制圧され、その領地を徳川家康に与えたことにより、浦賀も家康の領地となりました。
16世紀後半から17世紀初頭にかけての国際貿易港としては長崎や平戸などが有名ですが、この当時家康はスペイン船を浦賀に誘致しており、江戸時代の鎖国が始まる直前の一時期、浦賀はスペインとの貿易港となっていたのです。
当時のスペインは、現在のメキシコやフィリピンなどを植民地としていた大国で、フィリピンのマニラからメキシコのアカプルコへの間の貿易の中継基地を日本に求めていました。その状況に家康は着目して、スペインのフィリピン総督とも交渉を行い、その結果、1604年(慶長9)以降スペイン船が浦賀に入港するようになりました。この経緯には1600年(慶長5)に現在の大分県臼杵に着岸し、家康の外交顧問として活躍したウィリアム・アダムス(三浦按針)も大きく関わっています。
こうして、スペイン船の来航により国際貿易港となっていた当時の浦賀には、対スペイン外交を携わっていた三浦按針の屋敷や、スペインが布教を進めていたフランシスコ修道院も設けられていたと伝えられています。家康がスペインとの貿易を推進した理由として、スペインからの鉱山技術や造船技術を得たいという目的もあったのですが、一方のスペイン側は、それらを日本に伝えようとはしませんでした。
そして、1612年(慶長17)に関東の幕領に対してキリスト教禁止の通達が出され、1616年(元和2)には家康が没し、同年に将軍徳川秀忠が中国以外の外国船を平戸、長崎に限定するなど、時代の流れが鎖国へと向かう中で、浦賀の貿易港としての役割は終わりを告げました。その後、江戸幕府は1624年(寛永元)にスペインとの通商を断絶しています。
近年、スペイン、フィリピン、メキシコなどが共同で、17世紀前後のフィリピンのマニラからメキシコのアカプルコまでの太平洋横断、マニラガレオン船(帆船)航路をユネスコの世界文化遺産にノミネートしようという動きがあるようです。この航路の中継点としての浦賀の重要性が、世界に認知され始めているのかもしれません。

※参考文献…『徳川家康のスペイン外交』(鈴木かほる著)、『新横須賀市史』(通史編近世、年表)

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