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更新日:2017年2月27日

ページID:2991

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2.西徳寺(東光山無量寿院・浄土宗鎮西派)

 

西徳寺

(西徳寺)

和田地蔵

(和田地蔵)

鴨居八幡神社から、旧道を右に歩きます。
観音崎通りの左側に西徳寺の石段があります。
このお寺は、鎌倉の材木座にある光明寺の末寺で、鴨居にあったいくつかの廃寺をまとめたといわれています。永祿元年(1558)僧・法誉によって開かれました。
石段を登ると、大きなイヌマキとビャクシンの木が陽光をさえぎっています。いずれも樹齢400年を越え、三浦半島の名木・古木50選として紹介されています。
右のイヌマキの後ろの祠の中には和田地蔵が祀られています。
このお寺には、江戸時代の末期、文化8年(1811)から文政4年(1821)に江戸湾の防備のためにこの地に来た会津藩士の墓碑があります。
北方町内会館倉庫の近くにあった同藩士の墓も、道路の拡張のためこの裏山に移されました。

-和田地蔵-

鎌倉幕府成立の少し前、三浦一族の武将、和田義盛が、西徳寺前の川に地蔵を沈め、この戦で勝つことができるなら川上へ、敗れるなら川下へ流れるよう占ったところ、川上へ流れていました。
義盛は大層喜び、地蔵を引き上げてお堂を建て、祀ったと伝えられます。
その川は和田川です。昭和の前半まで、小魚や鰻の捕れる川でした。
一時期、汚濁しましたが、下水道の普及に伴い、きれいになってきました。
この川の源流は、小原台に行く道の先で二つに別れ、一方は小原台に(暗渠になっている)、もう一方は、中台の東の山裾を通り、二葉二丁目(梅山の奥)から流れが始まります。両源流の水源は湧き水や田んぼでした。
和田地蔵は、腫れ物や百日咳に霊験あらたかで、多くの信心をする人々を集めてきました。

-会津藩士の墓-

西徳寺の裏山に11基あります。
このうち「大広院深応浄遠居士」、「光顔院浄誉明鏡大姉」とある2基は会津飯盛山で自刃した白虎隊士間瀬源七郎の叔父と祖母のものといわれています。

-和田義盛と髭剃塚-

会津藩士の墓の奥に進むと、和田義盛の髭剃塚があります。
『浦賀郷土誌』には、「経三間余り(1間は約180cm)松林にかこまる方三間半許り」とあります。今は松林はありませんが、高さ2m程度、直径6~7mの塚は残っています。
上の台中学校を建設する時、中世以前の城跡に見られる、地下に掘り込んだ穴が発見されていますので、この辺は城跡ではなかったかと思われます。
『新編相模国風土記稿』には、「義盛塚山上に方三間許り、或は義盛髭剃塚とも唱う、由来詳かならず。」とあります。
和田義盛(1147~1213)は三浦大介義明の孫で三浦郡和田に居を構え、頼朝の挙兵を助けるなど鎌倉幕府の樹立に大功のあった武将でしたが、北条義時の政治的陰謀により滅びました。

 

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