閉じる

更新日:2016年8月31日

ページID:3781

ここから本文です。

庚申堂(塔)

 

庚申塚は庚申さまを信仰する人々が供養のために建てた石塔や像のことで、道の交差する辻や寺の庭などに建てられた。

はじめは、鎌倉道の曲り角の高台の観音堂のすぐ下にあったという。現在の大木たばこ店向かい側の、道が大きくカーブしたあたりだと伝えられている。その後、付近一帯の道路工事のため、東へ100メートルほど離れた船越町2丁目の京浜急行線ガード下付近へ移転した。しかし、昭和のはじめ頃、道路工事のため、庚申塚は船越公園内に移された。昭和18年、公園に軍の防空陣地がつくられ、以後終戦まで民間人は立ち入り禁止となり、塚は荒れるに任せていたようだ。

戦後の昭和25年、町の有志により駒寄(船越町6丁目19番地)に建てられたお堂に祀られるようになった。それから、町の人たちは名もなかった庚申塚を「駒寄の庚申堂」と呼ぶようになったが、現在は船越神社境内に移されている。

堂内に庚申塔としては、三猿像が彫られ江戸時代前期の作とされるものや天保6年(1835)の青面金剛像など3塔あり、内1塔は風化している。祖先が守り育てた尊像が風化しないようにと、船越連合町内会が中心となり全町民に堂建立の寄進をお願いし、平成16年4月船越町の歴史的・文化的遺産としてお堂が完成した。

庚申信仰は、江戸時代から明治に流行した民間信仰である。干支の庚申(かのえさる、60日に1回)の夜に体内にいる虫(三尸:さんし)が抜け出し、天帝にその人の罪禍をつげると天帝はその人を早死にさせるというので人々は長生きを願い、青面金剛(しょうめんこんごう)や猿田彦命(さるたひこのみこと)をまつり、その夜は眠らずに食べたり飲んだりして過ごす。おまいりするための塔をたてたり、庚申講がつくられ仲間が集まったという。庚申塔は、本来は健康と長寿を願うものであったが、やがて豊作や家内安全なども願われ、「庚申さま」として親しまれ、辻の守り神、村の守護神とされるようになった。

庚申堂(塔)写真

 

お問い合わせ

このホームページの作成者は、田浦行政センターですが、神社、寺その他施設のご利用や内容に関するお問い合わせにはお答えできませんのでご了承ください。

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページは見つけやすかったですか?

このページは分かりやすかったですか?

このページは役に立ちましたか?