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更新日:2018年8月13日

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船越新田

元禄12年(1699)に現在の横浜市金沢の泥亀新田を開拓した永島祐伯泥亀(ゆうはくでいき)の子、十郎左衛門春重が船越の入江あたり(現在の船越商店街、東芝ライテックの地)に海から塩水が入らないように約150メートルの防潮堤を築いて、船越新田を開拓した。防潮堤の内側に水の量を調節したり船をとめたりできるよう水だめを造った。宝永年間(1704~1708)に新田の形ができていたという。
その後、永島家が衰えた寛政年間(1789~1800)には、いったん人の手に渡るが、9代段右衛門忠篤(ただあつ)のときに買いもどされる。当時は三方を山で囲まれたほとんど水河原の土地で、葦が生えていたという。水田を耕したり、海岸を埋め立てて護岸工事を村民の協力で行い、新田が開発された。江戸時代の終わり頃には、新田の周辺には農家が20軒ほどあり、景徳寺の周辺と現在の船越町2丁目、3丁目の周辺に多くかたまっていた。新田のほとんどは水田であったが、天保のころ、船越新田には民家がなく、田浦村から里人が耕作に来ていたといわれ、明治10年でもわずか新田内には1軒しかなかったという。
明治15年、海軍横須賀造船所は、兵器工場を建てるため、船越新田を永島忠胤(ただたね)や田浦村の鈴木幸八などから宅地と田畠を海軍用地として買い上げた。明治16年から、兵器工場建設用地造成のため、横須賀監獄(刑務所)の服役者を使って山地の開さく、沼地の埋め立てなどの工事を始める。明治19年、船越新田に兵器製造工場(後の海軍工廠造兵部、現在東芝ライテック)を完成、作業を開始した。沼地・入海の埋め立てには、大新田・鈴木家と正観寺(浦郷町)所有の通称クラブ山や、景徳寺所有の山などを切りくずした土が使われた。
開発者永島家の子孫は泥亀新田に住んでいたが、明治の終わり頃、新田の全部を手ばなし、満州に移ったが戦後は東京に住んだといわれる。船越新田に移り住んでいた分家の永島家は敷地を海軍用地として買収され、西隣の山腹に移転した


 

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