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更新日:2018年8月13日

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田浦劇場


明治30年代、船越小学校下に「旭座」という演芸小屋があって、各種の演芸を興行していた。それが明治41年頃皆ケ作に移転して「入船亭」となったが、また移転して仲通り飯田屋前に「船越館」ができた。
大正9年の末、船越市街の中央で大火災があり、「船越館」も類焼した。その跡に「三友館」という小屋ができたが、大正12年の関東大震災で倒壊してしまった。その年の12月、新たに鎌倉道入り口付近(船越町2丁目の駐車場)にバラック式の演芸小屋ができ、「田浦劇場」と名づけられた。翌13年に改築され、本格的な劇場になった。
はじめは、芝居や浪花節、義太夫など演芸だけでスタート、後に松竹キネマと契約し、常設の活動写真館となった。当時は今のように映画館とはいわず、活動写真館と呼ばれていた。劇場前の道ばたには何本ものぼり旗が立っていたという。当時の活動写真は楽団の演奏もあったが、無声映画で、舞台のすそに弁士がいて画面に合わせて登場人物のセリフを語った。館内は土足禁止で、ゴザの敷かれたところにはだしで座って見物したが、下足番もいたという。昭和初期には、田浦劇場で制服警官や私服の「特高」といわれる特別高等警察の監視の下に代議士の政談演説会が行なわれたこともあった。
田浦劇場は、映画館として戦後の昭和40年代まで残っていた。

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