総合案内 > 健康福祉・子育て教育 > 歴史・文化 > 文化財 > 横須賀市内の指定重要文化財等 > 横須賀市指定重要無形文化財・重要民俗文化財・史跡・天然記念物 > 会津藩士墓地(あいづはんしぼち)
更新日:2013年12月24日
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指定年月日:昭和59年(1984年)4月25日
腰越墓地には会津藩士及び家族の墓23基が存在する。
会津藩士墓の歴史は文化7年(1810年)藩主松平容衆が幕府の命令を受けて、三浦半島の海岸警備並びに台場構築の任務に当たったことにはじまる。
これは当時、漂流民の引渡と通商を求めて日本沿岸に出没する外国船に対して、鎖国をしていた徳川幕府が外敵からの江戸城を防衛するためであった。
幕府は多くの大名から敢えて会津藩にこの大役を命じたのは同藩に対する信頼が篤かったためと考えられ、そうした幕府の期待に応えるべく、藩主は直ちに八百余名の藩士並びにその家族を同年11月に送りこんだ。
そして、観音崎・浦賀平根山・城ケ島に台場を構築した。
文政3年(1820年)12月にその任務は解かれたが、その間、会津藩士はいずれも一家を挙げて、居をこの地に移して海防の任務に当たった。
彼らにとって、はじめて経験する異郷での十年間にわたる生活は厳しいものであったにちがいない。
いま三浦半島の7ケ所(横須賀市内では鴨居西徳寺・能満寺、走水円照寺)に存在する墓石がそれを如実に物語っている。
あわせて、我々はこの台場構築という重大な土木工事のために地元横須賀の人々も働いていたことも忘れてはならないことである。
そして嘉永6年(1853年)には、ペリーが浦賀に来航し開国への道をすすむ。
この会津藩士墓地は開国という大きな歴史の流れの中で、江戸湾及び三浦半島を守るために活躍した藩士と幕末の横須賀を知る上で貴重な史跡である。
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