総合案内 > 市政情報 > 市の概要 > 施設 > 施設案内 > 行政・くらし > コミュニティセンター > 浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館) > 浦賀コミュニティセンター分館特別展 > 中島三郎助と海の先駆者たち
更新日:2017年2月27日
ページID:38349
ここから本文です。
中島三郎助が使用した自筆ノート 咸臨丸
咸臨丸の太平洋練習航海・航跡図 長崎海軍伝習所及び出島和蘭屋敷図 |
【開催期間:平成4年2月14日~2月29日】
今回は、浦賀の先達がその後の近代日本の幕開けにどのような足跡を残し、また活躍をしたのかを振り返る機会となりました。 弘化3年(1846年)アメリカ東インド艦隊を率いたビットルの来航、さらには鎖国日本の扉を開いた嘉永6年(1853年)のペリー来航など、浦賀奉行所の役人たちにとって強い衝撃を与えた事件が続きました。 こうした社会の動きが日本の近代化への大きな流れとなろうとしている時に浦賀奉行所の役人として、また「鳳凰丸」の建造にも力を注ぎ活躍していた人々の中に中島三郎助・佐々倉桐太郎・浜口英幹・岡田井蔵・山本金次郎などがおりました。 鳳凰丸が造られた翌年の安政2年(1855年)幕府はオランダから洋式軍艦スンビン号(日本名・観光丸)の寄贈を受けたのを機に、本格的な海軍を発足させるべく長崎に「海軍伝習所」を設立しました。 この長崎伝習所での訓練が、浦賀を出発した「咸臨丸」の太平洋横断の快挙という形で結実します。この咸臨丸には、安政7年(1860年)日米修好通商条約の批准書を交換する使節を護衛する目的で浦賀奉行所から佐々倉・浜口・山本・岡田の4名が士官として乗組みました。 また、咸臨丸はアメリカへ向けて出発する直前まで浦賀でドック入りをしていました。整ったドックがない時代ですので、京急浦賀駅前を流れる「長川」を利用してのドックでしたが、この時の船体修理が太平洋横断の成功に大きく貢献したことはいうまでもありません。そしてこのドックが日本で最初のドックになります。 浦賀は、日本で最初の洋式軍艦の建造と最初のドック設置という近代造船の草分けの地となり、ここに育まれた近代造船の息吹は、横須賀製鉄所から海軍工廠へと生き続けました。 私たちは、この幕末から明治にかけて生きた浦賀奉行所の俊英たちのことを日本の海の先駆者として誇りに思い、忘れてはならないこととして後世にも伝えていきたいと思います。 |
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください