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更新日:2017年2月20日

ページID:3515

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芥川龍之介文学碑

碑文

蜜柑
或曇った冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を
下してぼんやり発車の笛を待っていた。(中略)
するとその瞬間である。窓から半身を乗り出していた例の娘が、
あの霜焼けの手をつとのばして勢よく左右に振ったと思うと、忽ち
心を躍らすばかり暖かな日の色に染まっている蜜柑が凡そ五つ六つ、
汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た。私は
思わず息を呑んだ。そうして刹那に一切を了解した。

芥川龍之介は明治25年(1892)3月に東京市京橋区(現・東京都中央区)で生まれました。家庭の事情で幼くして入籍した養家は本所(現・墨田区両国)にあり、養家の家風と「遺された江戸」の面影をとどめる土地柄が、彼の個性成長に見逃せぬ要因となっています。

『蜜柑(みかん)』は、芥川龍之介が横須賀の海軍機関学校教官時代、鎌倉の下宿への帰路、横須賀線内でたまたま出会った出来事を題材としています。横須賀駅を出た汽車の中で、二・三等車の区別もわからぬ少女が、自分を見送るため待ちかまえていた弟たちに、窓から蜜柑を投げ与えその労に報いた姿を見て、最初にいだいた不快感から一転明るい感動を覚えたことを作品化したものです。彼は一時期、市内汐入580・尾鷲梅吉方(現・汐入町3丁目1番地)に下宿しましたが、塚本文との結婚で再び鎌倉に移りました。

海軍機関学校での生活は、時間的拘束や生徒の気風になじめず、芥川龍之介のいわゆる「不愉快な二重生活」であったようですが、そのためか週末はほとんど田端の自宅で過ごしていた時期もありました。だがそうした感情とは別に、彼は授業に対してはたいへん熱意があり、内容もおもしろく有益なものであったと当時の教え子が述懐しています。また、この学校勤務の期間(大正5年(1916)12月~同8年(1919)3月)にも文筆を続けており、「偸盗(ちゅうとう)」「或日の大石内蔵助」「蜘蛛の糸」「奉教人の死」などの名作が発表されました。
昭和2年(1927)7月、自ら杯を仰いで一命を絶ちました(享年35歳)。

交通:JR横須賀駅から徒歩13分、安針塚駅から徒歩11分、または安浦2丁目~追浜駅間バス、吉倉下車・徒歩2分
芥川龍之介

お問い合わせ

文化スポーツ観光部文化振興課

横須賀市小川町11番地 本館3号館4階<郵便物:「〒238-8550 文化振興課」で届きます>

電話番号:046-822-8116

ファクス:046-824-3277

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