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更新日:2017年2月20日
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碑文
海越えて鋸山はかすめども
此処の長浜浪立ちやまず
若山牧水は、明治18年(1885)8月に宮崎県東臼杵郡東郷町で生まれ、本名は繁。「牧水」という雅号は、彼の母の名マキ(牧)と彼が愛した坪谷川の水を合わせたといわれます。
若山牧水は、大正4年(1915)3月、妻喜志子の療養のため、東京から北下浦長沢の斉藤松蔵方に転居しました。ここで長女みさきが生まれ、同家の都合で翌年6月、再び近くの谷重次郎方に移転しました。一家はこの地で開業医田辺久衛氏にいろいろ恩恵を蒙り、妻も翌年にはすっかり快復しました。そして彼自身も月に1~2回の浦賀への往復や近くの子供を伴っての川釣り、時には松輪方面への遠出などの生活を楽しみました。その反面経済的には恵まれず、その上家族に対する愛情と、仕事への高い意欲とのはざまにあって、言いしれぬ苦悩の情も秘めていたようです。
碑の歌は第八歌集『砂丘』に所収され、「病妻を伴ひ三浦半島の海岸に移住す。3月中旬の事なりき」との添え書きがあります。戦後、千駄ヶ崎周辺の開発は少なからず潮流の変化をきたし、たびかさなる大型台風や海岸道路新設は、白砂青松の風情にも変化をもたらしました。それにもかかわらずこの歌は、松輪へとつづく当時の美しく壮大な白浪海岸をほうふつとしてよみがえらせ、往時をしのぶに十分な秀歌です。
若山牧水は「漂泊の歌人」あるいは「酒仙」といわれるほど旅と酒を愛しました。そのため彼の足跡は広く、歌碑の数もまた当代随一といわれています。彼は2年に満たない長沢在住の間にも旅情抑えがたく、約百日間は旅先に、百七十日あまりは東京に下宿していました。彼はここで『砂丘』『朝の歌』等の歌集のほか、随筆『旅とふる郷』や短編小説『麦と秋』を書き、長沢での生活をえがいています。同5年(1916)12月、一家はこの地を離れ、東京小石川に移りました。昭和3年(1928)9月に逝去(享年43歳)。
交通:京急長沢駅から徒歩9分
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