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更新日:2017年2月20日

ページID:3521

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石田波郷句碑

碑文

緑さす細田 掻きをり 一騎塚

 昭和31年(1956)5月、石田波郷は自ら主宰する俳句結社「鶴」の一行十数人とともに横須賀駅へ降り立ち、衣笠、武を経由して三崎へ向いました。碑の句は、その夜の句会での作で、翌年発行した『春嵐』に収められています。「鶴」には横須賀支部があったことから、彼は横須賀の俳人とも交流があり、同25年(1950)ごろに芦名を訪れています。
 石田波郷は、大正2年(1913)3月に愛媛県温泉郡は垣ぶ生村(現・松山市)で生まれ、本名は哲大(てつお)。昭和3年(1928)松山中学校4年のときに、同級生・中富正三(俳優・大友柳太朗)の勧めで句作を始めました。中学校卒業後、五十崎古郷(いかざきこきょう)を訪ねて入門し、写生俳句を学び、波郷の号を与えられました。同7年(1932)単身上京し水原秋桜子に師事、翌年、最年少で「馬酔木(あしび)」の第一期同人となり俳壇の注目を浴びました。同12年(1937)、「鶴」を創刊主宰し、「馬酔木」以外の新興俳句作家とも交遊し、人間探求派の作家とも呼ばれるようになりました。
 同18年(1943)に兵役につく前後から、病気がちになり、終戦直前の同20年(1945)6月に兵役免除となりました。同21年(1946)3月に「鶴」を復刊し、同年9月には総合俳誌『現代俳句』を創刊、編集に当たりました。同30年(1955)、前年発行の『定本石田波郷全句集』の業績により、第六回読売文学賞を受賞。同44年(1969)には芸術選奨文部大臣賞を受賞しました。同40年(1965)以後は、入退院を繰り返すようになり、同44年(1969)11月に逝去(享年56歳)。主な句集に、『鶴の眼』『惜命』などがあります。

交通:JR横須賀駅~長井または大楠芦名口間バス、一騎塚下車・徒歩3分
石田波郷
 

お問い合わせ

文化スポーツ観光部文化振興課

横須賀市小川町11番地 本館3号館4階<郵便物:「〒238-8550 文化振興課」で届きます>

電話番号:046-822-8116

ファクス:046-824-3277

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