更新日:2018年8月9日
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田浦3丁目の静円寺下に、安政5年から明治に建てられた馬頭観音堂が残っている。当時、馬は農耕や輸送などに重要な働きをしたので、人々は馬を大事にし、馬の無病息災を祈る信仰が生まれ、馬とともに道中の安全を祈ったり、また道半ばで力つきた馬を供養するため、祀られるようになった。いぼとりや百日ぜきなどにも効くという。馬頭観音は、正式には「馬頭観世音菩薩」といい、馬が周囲の草をむさぼるように、人間の煩悩を食べつくして救済するという考えから、日本では奈良時代以降に信仰されるようになったという。馬頭観音は梵名をハヤグリーバァといい、これは「馬の頭をもつ者」という意味で、もともとは、馬の頭の形をした宝冠をいただいた姿であった。馬の供養や無病息災の祈願がこめられていたが、やがて観音の像よりも、「馬頭観音」の文字塔が多くなり、また特定の馬の供養や、墓石の意味をもつようになった。
なお、明治15年の旧陸軍迅速図作成にともなう付属資料である「偵察録」によると、当時の田浦地域の牛馬数は、船越新田0、田浦村は24、長浦村は0で、一方、牛はどの村も0で、特に田浦村に馬が飼われていたことがわかる。
江戸時代、死んだ牛や馬は村境などの人里はなれた空き地や海岸などに埋葬することが多かったという。「馬捨て場」とか「ソマシキ場」と呼ばれた。古老によると、田浦にも昔は馬捨て場が海岸付近にあったという。このような場所は、「この世」と「あの世」の境とされる他界観から選ばれたのであろうか。
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