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更新日:2018年8月9日

ページID:3741

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海軍水雷学校跡碑

船越トンネルを田浦方面へ通りぬけると、左手長浦湾沿いには、海上自衛隊第2術科学校があるが、ここは、旧海軍水雷学校の敷地だった。水雷学校は、水雷や通信技術を身につけることを目的としたところで、明治12年、横須賀に水雷術練習所を設置したことにはじまる。その後、明治19年、水雷術練習艦の「迅鯨」を長浦湾の鯛ケ崎の近くにおき、陸上にも講堂をつくって練習をひろげた。明治37年、「迅鯨」が古くなり役にたたなくなったため、練習所を陸上に移すことになり、庁舎や兵舎などを新築移転し、翌明治40年名称も海軍水雷学校となった。創立当時の教育科目は電気器具・防御水雷・攻撃水雷・通信術の4科目であった。日本がはじめて魚雷を導入したのは明治17年である。この魚雷の導入によって、それまで機雷が主であった水雷は防御水雷(機雷系、時代によって敷設水雷、機械水雷、機雷と呼んだ)と攻撃水雷(魚雷系、時代により自動水雷、魚形水雷、魚雷と呼んだ)の2系列となった。
明治37、8年の日露戦争で活躍した広瀬中佐も、練習所時代のこの学校に入り、練習艦「迅鯨」で水雷術を学んでいたという。その後、海軍水雷学校の敷地を拡張するため、大正9年、海岸沿いにあった通称「丸山」を崩し始め、池の谷戸から小田までの何十軒もの家が移転した。丸山を崩したときの土は、埋め立てに使われた。その結果、「屏風坂」と呼ばれた池の谷戸から船越に向かう坂もなくなった。
昭和5年、「海軍通信学校」が水雷学校から分離独立し、昭和14年、「海軍通信学校」が田浦から久里浜に移転する。
一方、その後の内外の軍事情勢の推移や将来戦の予想にもとづき、対潜戦や機雷戦など防備関係の教育を一段と強化する必要にせまられた。昭和16年、水雷学校機雷部関係が分離独立して久里浜に移転し、海軍機雷学校が設立された。さらに昭和19年、機雷学校は海軍対潜学校(その後、水雷学校久里浜分校となる)と改称された。
昭和19年3月戦局を挽回するため、海軍は臨時魚雷艇訓練所を田浦から長崎県川棚町に移し、海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所として魚雷艇と特攻兵器震洋艇の教育訓練を実施した。昭和20年8月15日、終戦により海軍水雷学校は廃校となる。
昭和58年、(旧)関東自動車工業本社前に、この「海軍水雷学校跡碑」が卒業生や関係者によって建てられた。
現在、敷地内には、当時の第四兵舎や水雷神社(現・関東神社)、海軍のマークの入ったマンホール・消火栓などが保存され使用されている。また当時の生徒が富士山の溶岩で築き上げた富士塚(模型)も保存され、山側には防空壕(地中工場)入口跡がある。


海軍水雷学校跡碑写真
補習員修了記念写真
海軍マークが入っている消火栓写真


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