北条氏規印判状(ほうじょううじのりいんぱんじょう)
指定年月日:昭和47年(1972年)1月25日
田戸の赤門で知られる永島家に伝えられてきたこの文書は、伊豆韮山城・上野館林城及び相模三崎城の城主北条氏規から出された4点の印判状である。
この印判状は、4点とも葛網漁業に関するもので、今日まで知られている北条氏規文書は、32点(印判状16点、書状16点)であるが、4点中には初見の乙卯の干支を持つ文書もある。
北条氏規は、氏康の四男で、この文書から11才で既に三崎の城主として三浦半島を支配していたと考えられる。
豊臣秀吉の小田原攻めの際はに韮山城に立て籠り、十倍余の豊臣軍に対し武勇の将たることを発揮し、小田原開城後は河内国に領地を与えられた。
葛網は、摂津・紀伊等の関西漁民から伝えられたという集団漁法で、鯛を獲るところから地獄網ともよばれる。
北条氏は、この漁法の集団性を水軍水主に転用するためにも葛網漁民を把握し、かつ保護する必要があり、当時の浜代官永島氏にあてて文書を出したのがこの文書である。